アリラン キム・ギドクの隠遁生活

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キム・ギドク(金基徳)の2011年の映画「アリラン」は、キム・ギドクが自分自身の日常を自分で撮影したもので、自撮り映画と称すべき作品。ある人間の日常を追っているという点ではドキュメンタリーといってよいが、単なる日常ではなく、そこにドラマ性をも感じさせるので、ドラマ映画といってもよい。そんな映画をなぜキム・ギドクは作ったのか。

キム・ギドクは2008年に作った映画「悲夢」の撮影現場で一俳優の命を危険にさらしたことを反省し、映画界からしりぞいて、どこかの山中で隠遁生活を送った。その生活が二年続き、三年目に入ったところで、ギドクは自分自身の暮らしぶりをドキュメンタリー・タッチで表現することで、現場復帰のための助走をしたつもりなのではないか。じっさいこの映画の公開が好意的に迎えられたことをステップにして、ギドクは映画製作を再開し、さっそく「嘆きのピエタ」という傑作を作っている。

山中で自炊生活をするギドクの姿が映されるところから始まる。カメラを固定させて自撮りしているのか、それとも助手に撮影させているのか、よくわからない。孤独な生活だが、猫が寄り添っている。そのうちに、誰かによってインタビューをうける。その誰かというのが、ギドクによく似ているので、おそらくギドクの分身なのだろう。その誰かが、ギドクに映画製作の現場にもどるように催促する。大衆が君を待っているというのだ。

それに対してギドクは、まだその時期ではないが、しかし映画つくりへのこだわりは強いと答える。ギドクは十五歳で女性に囲まれながらの仕事をはじめ、社会の下積み生活が長かったが、映画監督になれたおかげで、一人前の人間になることができた。自分の取り柄は映画しかないので、ぜひ復帰したいという気持ちはもっている、と言うのだ。

そのうち、どういうわけか感情が高まって涙声になる。その涙声でアリランを歌う。アリランを歌いながら、ギドクは朝鮮民族の原感情としてのハン「恨」について語る。ハンがなぜ朝鮮民族の原感情になったのか。それは、この映画からは読み取れないが、異民族による支配とか、民族の分断といった歴史的な条件からきているのではないか、というふうに思わされるところだ。

涙声はそのうちに絶叫へと高まっていく。なぜ絶叫するのか、その気持ちは、小生のような日本人にはなかなかわからない。






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