文明資本主義機械 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む

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ドゥルーズ=ガタリが資本主義について否定的なのは、二つの理由による。一つは、資本主義が西洋的な社会システムの行きついた先であるということである。ドゥルーズはもともと、ニーチェに触発される形で、西洋の伝統哲学の解体と、それにかわる新しい思想の構築を目指していた。そんなかれにとって、資本主義は、西洋の哲学的伝統が体現されたものだと映った。だから、西洋哲学の解体と資本主義の否定はパラレルな関係にある。西洋の伝統哲学を解体するためには、資本主義を否定する必要がある。資本主義を温存したままでは、西洋哲学の解体などなしえないのである。

もう一つの理由は、資本主義が人間性の解放にとって桎梏となっているということである。もっとも、人間性が全面的に解放されていた時代などは、歴史上には存在しなかった。マルクスは、原始共産制という仮説を持ち出し、少なくとも理念上は、人間性がそれなりに解放された時代があったと仮定していた。だから、歴史の動きを、人間性が開放されていた原始共産制からの堕落の歴史ととらえ、その堕落を乗り超えて、人間を人間らしい状態に回復させるという展望を提示することができた。これに対してドゥルーズ=ガタリは、マルクスの原始共産制に相当するような、人間性に満ち溢れた理想的な時代など想定しない。かれらの社会理論の特徴は、理念的なものとしての「原国家」を前提とするものだが、「原国家」という概念には、解放された人間性という理念は含まれていない。むしろ、専制君主による支配をイメージしているくらいである。

そんなわけだから、かれらが、資本主義が人間性にとっての桎梏となっているというときには、資本主義だけが桎梏になっているわけではないという認識が含まれている。歴史上のどの時代においても、人間性が全面的に解放されたことはなかった。だが、いまは資本主義の時代であり、その時代を前提にして人間性の解放という課題について考えざるをえない。資本主義は、西洋的な社会システムのこれまでの到達点なのであり、その到達点を所与として、それの克服と(人間性の解放をめざす)新しい社会システムの構築にとりかかるべきなのである。

国家の捉え方もそうだが、資本の捉え方も、ドゥルーズ=ガタリは、マルクスとはかなり違った捉え方をしている。マルクスの社会理論には、歴史の進行に断絶を見る視点が働いている。封建国家と近代国家の間には断絶があるし、また古代から封建時代への経済的な変化にも断絶がある。それに対してドゥルーズ=ガタリは、国家にしろ経済にしろ、断絶よりも連続の面を重視している。資本主義についていえば、マルクスは、資本は近代の資本主義社会ではじめてあらわれたというふうに認識している。資本主義以前にも、ユダヤ人による金融資本など疑似的な資本はあったが、それは資本主義社会における資本とは根本的に異なっている。それに対してドゥルーズ=ガタリは、資本主義以前の資本と資本主義システムにおける資本とを、基本的には連続性において捉えている。もっともある程度の差別はある。その差別が、今日我々にとって所与となっている資本主義を成り立たせている。そのわれわれの資本主義をかれらは、「文明資本主義機械」と呼ぶのである。

資本主義以前の資本と資本主義システムにおける資本との差異を、ドゥルーズ=ガタリは次の点に見る。資本としての貨幣が、自分の労働力を売らねばならない自由な労働者と出会うことで、その自由な労働者の労働から剰余価値を引き出すようになると、資本は剰余価値を生む権能をもつようになる。そのような資本が、資本主義における資本のあり方である。資本主義時代以前には、資本は、基本的には等価交換の手段であって、剰余価値を生むことは期待されていなかった。もし剰余価値に類似したものを生むとしても、それは交易地の価格差を利用したものであったり、あるいはユダヤ人による高利貸しのような形に限られていた。資本が無条件に剰余価値を生むようになるのは、近代の資本主義システムにおいてなのである。かれらのこうした見方は、マルクスの資本論を踏まえたものだが、彼らなりのユニークさも指摘できる。たとえば、資本主義時代の資本を「出自資本」と名付けることなどである。出自資本は、資本と剰余価値の関係を親子の関係にたとえるものである。親が子を産むように、資本が剰余価値を生むというわけである。それに対して、出自資本以前の資本をかれらは「縁組資本」と呼んでいる。縁組とは婚姻についての概念だが、婚姻が親族以外の一定の縁に基づいて成立するように(女の交易としての婚姻)、縁組資本も、外部社会との交易を通じて機能すると考えるわけである。

ドゥルーズ=ガタリが資本主義の限界を主張する理由は、剰余価値の追求が自己目的化し、人間性の尊厳が顧みられなくなるといった事態にある。資本はそもそも労働者の労働を搾取することで成り立つものなので、本来的に非人間的な側面をもっているわけだが、剰余価値の追求が自己目的化すると、人間性への敵対は目に見えるほど顕著なものになってくる。その理由はやはり二つある。一つは、マルクスが利潤の傾向的低下と呼んだものである。マルクスが指摘するように資本が得る平均利潤は低下する傾向がある。利潤が傾向的に低下した先には、その極限がやってくるはずである。極限状態に達すると、資本は利潤すなわち剰余価値を生み出さなくなる。そこで資本は、その極限をなるべく先に延ばすことに専念する。それは、資本主義システムの周辺にある社会を資本主義システムに取り込むこと(植民地主義)だとか、機械化の拡大などを通じてなされる。マルクスは、機械などの固定資本は利潤を生まないと考えたが、ドゥルーズ=ガタリは、使い方によれば固定資本も利潤を生みだすと考えているようである。

いずれにしても、剰余価値追及の自己目的化は、非人間的な事態を広範に引き起こす。かれらはそれを「反生産」という概念を使って説明する。反生産とは、剰余価値を消費や投資に向けるのではなく、無駄な分野に振り向けることをいう。かれらがその具体的な例としてあげているのは、広告宣伝、市民行政、軍国主義、帝国主義といったものである。これらは、人間社会の生産性をあげるためにではなく、剰余価値を吸収するために機能するものだ。こうしたものが、剰余価値の主な吸収先となると、国家の役割が飛躍的に強化されるという。なぜなら、戦争とか侵略とかは国家でなければ行えないからだ。国家やその付属機関がいまや資本主義システムの主要な担い手となる。彼らは言う、「<国家>やその警察や軍隊は、ある意味では反生産の巨大企業であるともいえるのであるが、しかしそれは、生産そのものの只中で、この生産の条件をなしているものなのだ」(市倉宏祐訳)。

ドゥルーズ=ガタリにとって、国家の本来的なモデルとしての原国家のはたらきは、社会のさまざまな利害を調整することにあったから、その国家が、社会を支配するようになるのは、本来のあり方から逸脱しているということになろう。





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