無情説法 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第四十六は「無情説法」の巻。無情は有情に対する。有情が心をもった生きとしいけるものをいうのに対し、無情は心をもたない草木瓦礫などの無生物のことをいう。その無生物たる無情が説法するとはどういうことか。それを考えることで、説法の意義を明らかにすることがこの巻の目的である。要するに、説法があるということを前提としたうえで、その説法とは何かについて原理的な考察を加えるのである。

巻の構成としては、まず説法とはなにかについて総論的なことを説いたのちに、三つの問答をとりあげて、説法の意義について掘り下げた考察をする。その三つとは、一に大唐國西京光宅寺大證國師(南陽の慧忠)と一僧とのやりとり、二に高祖洞山悟本大師と參曩雲巖大和尚のやりとり、三に舒州投子山慈濟大師と一僧とのやりとりである。

まず、無情説法についての総論的な説明。巻の冒頭にそれが書かれている。曰く、「説法於説法するは、佛祖附囑於佛祖の見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあらず、無情にあらず。有爲にあらず、無爲にあらず。有爲・無爲の因にあらず、從縁起の法にあらず」。説法を説法するのは、仏祖から仏祖へと附嘱されていくことである。これは法が説くところのものである。法が説くのであるから、有情とか無情とかは関係ない。法は有情や無情を超越しているからである。それならば、単に説法といえばよいのではないかとの疑念もわくが、道元はあえて無情説法ということで、説法が世界の形式的なあり方を超越しているということを強調したかったのであろう。

そういうわけであるから、これに続く次のような言葉が深い意味を持つ。「説法は佛祖の理しきたるとのみ參學することなかれ。佛祖は説法に理せられきたるなり」。これは説法は仏祖が処理してきたものではなく、その逆に説法が仏祖を処理してきたのだという意味である。説法のほうが、仏祖よりも根源的だということである。説法とは、存在が啓示されたものなのである。法には存在という意味もある。

以上を踏まえたうえで、三つの問答が持つ意味を考察する。まず、大證國師(南陽の慧忠)と一僧との問答。僧が大證國師に、無情は説法を解することがあるかと問うた。國師はつねに説法してやむことはないわいと答えた。僧がではわたしにはなぜ聞こえないのでしょうかと問うた。國師は汝に聞こえないからといって、他人の邪魔をするなと答えた。以下二人のやり取りが続く。
僧 どんな人が聞こえるのでしょうか
國師 聖人たちじゃ
僧 和尚さんにも聞こえますか
國師 わしには聞こえん
僧 和尚さんに聞こえないのであれば、どうして無情説法を解することができましょうか
國師 さいわいわしには聞こえぬが、もしわしに聞こえたら聖人たちと同じということになる、そうすれば汝にはそれがわからぬであろう
僧 それなら、無情説法は衆生には縁がないことになります
國師 わしは衆生のために説く、聖人のためには説かん
僧 それを衆生が聞いてどうなるのです
國師 それを聞いた衆生はもはや衆生ではない
このやりとりを道元は、よく勉強すべきだというのである。それに加えて、「無情説法かならずしも聲塵なるべからず」と言っている。無情説法は、人間の声として聞こえるものではないというのである。

次に、高祖洞山悟本大師と參曩雲巖大和尚のやりとり。洞山が師匠の雲巖に、無情説法は誰が聞くことをえるのでしょうかと問うた。雲巖は無情説法は無情が聞くことができると答えた。以下次のように続く。
洞山 和尚には聞こえますか
雲巖 わしに聞くことができたら、おまえにはわしの説法を聞くことができまい
洞山 もしそうなら、自分は和尚の説法を聞きますまい
雲巖 わしの説法を聞かないとなれば、無情説法を聞くはずがない
ここで洞山は次のような偈を作った
  也太奇、也太奇  不思議や、不思議や
  無情説法不思議  無情説法は不思議なものじゃ
  若將耳聽終難會  耳で聞かんとすればついに聞こえず
  眼處聞聲方得知  目で声を聴いて初めて知ることができる
これは、先述の「無情説法かならずしも聲塵なるべからず」という言葉に通じるものだ。無情説法は、人間の声を通じて表現されるものではないということである。ということは、無情とは凡夫でもなく聖人でもなく、有情でもなく無情でもないということである。ではなにか。おそらく抽象的な原理を道元はイメージしているのであろう。

最後に、舒州投子山慈濟大師と一僧とのやりとり。これは非常に短いもので、一僧が無情説法とはどのようなものですかと問うたのにたいして、「莫惡口」と答えたというものである。莫惡口とは、余計なことはいうな、という意味である。






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