雑誌「世界」の最新号(2024年8月号)に、朱喜哲の「いまは哲学の出番ではない」と題した小論が掲載されている。アメリカのプラグマティズム哲学者リチャード・ローティについて論じたものである。論者はローティ研究者だということらしいが、そのローティが晩年にアメリカの対テロ戦争と称する武力行使を容認したことを取り上げて、そうした姿勢が哲学者としてのかれの思想とどのような関連があるのかについて考察している。小生は、ローティのことは全く知らないので、たいしたコメントをすることはできないが、これを読んでの印象は、ローティは本来まともな思想の持ち主ではあるが、こと政治の問題については非常に保守的だったと論者が考えているということだ。それはローティが、政治はプラグマティックな実践の問題であり、したがって政治を論じるときは、哲学は脇へ置かねばならないと割り切っていたことから来るのだろうと論者は忖度しているように見える。
要するに論者は、哲学者としてのローティと保守的な人間としてのローティとの間に区別をつけ、保守的な人間としてのローティは俗物的な態度をとっているが、それは哲学者としてのローティとはかかわりのないことだと受け取っているようである。しかしそんなものか、というのが小生の率直な印象である。
プラグマティズムについてはいろいろな見方があるだろうが、小生はそれを英米流の功利主義に立ったものだと考えている。功利主義というのは、基本的には、普遍的な理念とか理想を棚上げして、現世主義的な利益の実現を重視するものである。一見普遍的な理念をまとっているように見えるものも、よくよく見れば特定の人間集団の利益を反映したものだ。この世界に、普遍的に通じる理念などはなく、じつは最も有力な集団の「われわれにとっての正義」が人類共通の正義を名乗っているに過ぎない。そういう相対的な視点に立った見方が功利主義的な思想の根底にある。英米では正義論が盛んだが、ロールズにしろサンデルにしろ、英米流の正義とは、かれらにとって都合のよい正義に過ぎない、ということになろう。
そう考えれば、ローティの哲学とかれの俗物根性との間に区別を立てる必要はない。どちらも、ローティの属する集団の利益を反映したものにすぎない。ローティの属する集団とは、アメリカに生息する白人コミュニティだ。ローティはそのコミュニティの利益を代弁しているにすぎない。そう考えれば、朱が問題にするようなローティの行動が、かれの功利主義的な思想と矛盾するものと考える必要はない。
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