小説「カラマーゾフの兄弟」のクライマックスは、ドミートリーの父親殺しの嫌疑をめぐる刑事裁判である。それに先立ち、司法当局者たちによる予備的な尋問が行われていた。ドミートリーがグルーシャとともにどんちゃん騒ぎをやっているところに、かれらは顔をあらわし、尋問を始めたのである。じつにみごとなタイミングであったが、それにはわけがある。たまたま警察署長ミハイル・マカーロヴィチの家に、判事のニコライと検事のイポリート、司法医のヴィルヴィンスキーが集まっていたところ、ヴェルホーヴェンという小役人が、フョードル殺害の一報をもたらした。かれらはさっそく現場に飛び。フヨードルが血だらけで死んでおり、札束を抜き取られた封筒が床の上に落ちているのを見る。かれらは、犯人は長男のドミートリーにちがいないと推測する。ドミートリーは日頃から父親殺しを示唆するような発言をし、また、父親との間で金のトラブルを抱えていたからである。
かれらは、ドミートリーのいるモークロエ村に直行し、ドミートリーをはじめそこにいる人々を尋問する。尋問は検事のイポリートが中心になって行い、それに判事と警察署長が立ち会うといったかたちだ。日本では、刑事事件の一次的な捜査は警察が担当することになっているが、ロシアでは、最初から検察がかかわるばかりか、裁判官まで介入することもあるということらしい。被告側は、弁護士をたてることはせず。とりあえず自分だけで尋問に応じる。黙秘権はあるようだ。
尋問を通じて検事は、ドミートリーの犯行を確信する。ドミートリーが金目的で父親を殺害し、封筒の中にあった3000ルーブリの札束を抜き取ってモークロエに直行し、そこで大判振る舞いをして楽しんでいたにちがいないと推論したのである。裁判本番におけるかれの弁論は、こうした確信のうえに行われたものだが、それが実証的なやり方ではなく、情緒的なものだというところに、その裁判の特異な性格を読者は感じさせられるのである。
裁判本体は、検事による論告と弁護士による反論を中心に行われ、最後に12人の陪審員たちによる評決というプロセスをたどる。検事による論告及び弁護士による反論は適宜証人尋問や証拠の提出をともなう。アメリカの裁判がとくにそうだが、ロシアの裁判も、検事や弁護士による弁論のテクニックが裁判の行方を大いに作用するようだ。物証よりも、状況証拠や犯罪行為の推測が大きくものをいう。じっさい、この裁判における検事イポリートの弁論などは、犯罪追及を目的とした科学的・実証的推論というよりは、陪審員たちの心証を左右することを目的とした、きわめて印象操作的な言説からなっているのである。
ともあれ、証人尋問と一通りの証拠調べののち、まず、検察側の論告がなされる。極めて長いものだ。論告は無論犯罪の成立を論証するものだ。そのために、物証が物をいうというのが、欧米の刑事裁判の基本的な流れだと思うが、ドストエフスキーの時代のロシアの刑事裁判は、物証よりも状況証拠とか容疑者の人間性といったものにもとづいて、犯罪を類推するというのが、この小説からは伝わってくる。
検事イポリートの論告は、きわめて文学的である。裁判の論告というより、一篇の小説を聞かされているような気になる。かれはまず、犯罪をおかしやすい人間の性格について解明し、そうした性格に共通するものをドミートリーも持っているということを根拠にして、ドミートリーが犯人だと決めつけるのである。今回の事案は父親殺しという、ロシア人にとってもっとも受けいれがたい犯罪である。その罪を犯す可能性があるのは、現場の当時の状況からしてごく少数の人間に限られる。スメルジャコフとグリゴーリーもその少数の中に入っている。ところが、ドミートリー以外のものには、事実上あるいは動機上、犯人といえる証拠がない。しかし、その少数の中から犯人を捜さねばならないとしたら、ドミートリー以外に犯人と考えられる人物はほかにはいない。したがってドミートリーが犯人である、ということになる。要するに積極的な証拠にもとづいて犯人捜しをするのではなく、状況証拠に基づきながら、消去法を活用して犯人を特定するというわけである。
弁護士フェチェコービチは、カテリーナがドミートリーのために首都から呼び寄せた有能な弁護士である。かれは、イポリートとは異なり、文学的ではなく、実証的な弁論を展開する。起訴の理由となっている事実がことごとく証拠不十分で、かつ空想的なものであることを証明しようとするのである。その証明は見事なもので、検事の論告はことごとく反駁されたと、その場に居合わせた大勢の人々に思わせた。なにしろ法廷には、地元の紳士淑女のほかロシアじゅうの注目が集まっていたのである。
陪審員たちによる評決は有罪だった。陪審員たちは、どうもロシア的な秩序の擁護者という意義をもたされていて、その自覚がドミートリーを有罪だと判断させたのであろう。この事件は、かならず犯人を特定せねばならない。うやむやに終えてしまっては、ロシア的な秩序が崩壊してしまうからである。じっさい陪審員の構成は、四人の役人と二人の商人、六人の百姓からなっているが、かれらはみなロシア的な秩序の体現者たちなのである。この陪審員の構成については、ある夫人が次のような感想をもらしている。「こういう微妙な複雑な心理的事件があんな役人や、おまけにあんな百姓たちの決定に任されるのでしょうか? あんな役人や、ましてやあんな百姓たちに、この事件がわかるのでしょうか?」
こうした疑問は、裁判が真実の解明と正義の実現を目的としたものだと考えれば納得できる疑問である。だが、ロシアの裁判は、ロシア的な正義を実現するためのものであり、そのロシア的な正義とは、この事件に関して言えば、尊属殺人には厳罰を与えねばならぬというものだった。そういった要請から見れば、陪審員たちはごく当然の評決をしたことになる。
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