精神分析と資本主義の結びつきは、ポリティカル経済学(政治経済学)と資本主義との結びつきと同じほどに深いとドゥルーズ=ガタリはいう。ポリティカル経済学の資本主義への貢献は、抽象的主観的労働を発見し、それを資本のために最大限活用させるための理論的根拠を提供したことである。精神分析の資本主義への貢献は、欲望する生産における抽象的主観的リビドーを発見し、それによって資本主義に堅固な基盤を与えたことである。資本主義は基本的には社会的生産であるが、しかしそれは生きた人間によって活気を付される。その活気は家庭を通じて個人に備給される。資本主義システムは、そうした家庭主義的な要素に支えられているのである。
つまり、資本主義を支えているのは家庭なのである。その家庭が資本主義に必要な人材を大量に生み出すことを資本主義は当然期待する。家庭がその期待に応えるには、社会的な要請を家庭自体としての内面化された倫理的な規範として確立しておかねばならない。その倫理的な規範の根拠となるのがオイディプスなのである。精神分析は、オイディプスを動員して、諸個人を資本主義に有用な人材に作り上げていくのである。それに対して、精神分析のライヴァルである分裂者分析は、資本主義にとっては破壊的な影響を及ぼす。だがそれについては、別途取り上げることにする。
とはいえ、資本主義が家庭に対して無理やりに規範を押し付けるわけではない。家庭はそのあり方からして、資本主義システムと親和的な関係を結びやすいようにできているのである。資本主義は、ポリティカル経済学の祖アダム・スミスがいみじくも言ったように、私人の自由な活動から成り立っている。私人があらゆる社会的なしがらみから自由になり、一個の抽象的労働として市場に現れることが、資本の活動するための条件である。その一個の抽象的労働を生み出すのが家庭なのである。その家庭は、かつてのように共同体に帰属してはおらず、あらゆる社会的束縛から解放された自由な生活単位なのである。自由な家庭から、自由な労働者が育つ。そうした自由な労働者が、資本の価値増殖過程を支えるのである。
人間というものは、本来社会的な生き物であるが、抽象的労働の担い手としては、社会的であることは無用である。労働者として最低限の規律を身に着けておればよい。その規律を付与するのが家庭である。家庭はその規律をオイディプスという形で与える。オイディプスは、資本主義にとって最低限必要な規範を人間にすりこむための機械なのである。そんなわけで、「精神分析がどこまで資本主義に帰属しているのかを全面的に測定するのが可能となる」とドゥルーズ=ガタリはいっている。
精神分析は、基本的には精神障害をわずらう患者を社会復帰させることを目的としたものである。精神障害のうちで精神分析が担当するのは神経症であるが、これは、いってみれば社会適応障害の症状である。だからそれを癒して社会復帰させてやる。社会復帰の概念には、家族との関係を含めて健全な人間関係の回復が含まれている。健全な人間関係とは、資本主義社会にあっては、企業の期待に応えるような人間関係のことである。企業の期待にこたえて、常識的に行動する。そのような人間をつくるのが精神分析の役割なのである。
常識的に行動する人間とは、資本主義の精神を体現した人間とも言い換えることができよう。資本主義の精神は、資本家のみならず、労働者にも求められるのだ。マックス・ウェーバーは、資本主義の精神を勤勉と結びつけ、もっぱら企業家に求められる精神的資質としたが、それでは、資本主義を全面的に解明したとはいえまい。労働者階級を含めて、すべての人間に必要とされる資質を解明した点では、フロイトの精神分析理論は、ウェーバーよりもはるかに広い視野をもっていたということができよう。もっとも、ドゥルーズ=ガタリは、ウェーバーについてはまったく言及していない。
こんなわけであるから、資本主義の根本的な批判のためには、精神分析の徹底的な批判が前提となる。精神分析を無力化することで、資本主義の精神的な支持基盤を崩すのである。この書物の大部分が、精神分析の批判にあてられているのは、そのためなのである。
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