昨年の7月15に満75歳の誕生日を迎え、いわゆる後期高齢者の部類に入れられることになったのを記念(!)して、「落日贅言」と題するエッセーのシリーズを始めてから一年がたった。まだ、元気で生きている。先日は、野暮用で二人の老人と親しく付き合うことがあったが、二人とも86歳の高齢で、矍鑠としていた。その姿を見て小生は、自分もあと十年は元気でいられるかもしれないと思い、その気持ちを家人に披露したところ、家人はうれしそうな顔をしたものである。
落日贅言シリーズの連載を始めたころ、ロシアによるウクライナの侵略が二年目に入っていた。こんな理不尽な侵略が21世紀の地球社会でいまだに行われていることに小生は驚愕した。そこで、シリーズ開始の辨(「落日贅言の辨」と題する)に続いて最初に選んだテーマは、ロシアのウクライナ侵略についてだった。「ウクライナ戦争は世界をどう変えるか」と題したそのエッセーの中で、一時期地球を席巻したグローバリゼーションが地球社会を安定化させるという期待はあまり根拠のないもので、地球社会は再びナショナリズムがぶつかりあう殺伐とした動きに見舞われるようになった。それは嘆かわしいことではあるが、人類社会にとってもっともベーシックな傾向ではないかとの悲観的な見方を示しておいた。
そうした悲観的な見方はその後強化された。というのも、ウクライナ戦争に先が見えない状況の中で、今度はパレスチナで大規模な民族間衝突が起きたからだ。ハマスによる攻撃に過剰反応したイスラエルのユダヤ人たちが、ガザのパレスチナ人に対してなりふりかまわぬジェノサイドに踏み切ったのである。イスラエルのユダヤ人指導者の言い分を聞いていると、かれらがパレスチナ人について民族浄化の意思を持っているように伝わってくる。イスラエル国家は、もともとユダヤ人によるパレスチナの侵略によって生まれたものだ。その侵略は一方的な暴力の行使であったから、イスラエル国家は暴力の上に成り立った国家といってよい。そういう国家が存続していくためには、暴力の行使を永遠に続けねばならない。その暴力の連鎖がなくなるのは、暴力を振るわれる民族がこの世から殲滅させられ存在しなくなるときだけである。暴力を振るわれる民族の成員が、多少とも存在するかぎり、暴力を振るう側は反撃を恐れねばならない。かれらがそうした反撃から解放され、真に安全だと思えるためには、暴力を振るう対象の民族を皆殺しにする以外にない。じっさい、今回ネタニヤフらイスラエル政府の指導者たちは、ハマスの殲滅を大義にして、パレスチナ人全体を根絶やしにするという意思を隠してはいない。
どうしてこんなことになってしまったのか。そういう疑問が世上に満ち溢れている。本来なら、国家間の戦争をやめさせるのは国連の機能である。国連は、もともとは、第二次大戦の戦勝国の利益のために作られた組織であるが、そんな本音をあからさまにすれば、国際組織としての存在意義があやうくなるので、一応、高尚な理念をかざしている。国連は構成国による総会と、一部の国家で構成する安全保障理事会(安保理)を主な構成要素としているが、このうち地球社会の安全保障を担うのは安保理の役目である。国連憲章は、第四章第24条によって、「国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任」を安全保障理事会に負わせており、第七章第39条によって、「安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する」と規定している。41条及び42条は、理事会の決定を実施するための具体的な措置を定めるものであり、42条には国連による武力行使も規定されている。
こういう規定が文字どおり実施されれば、ウクライナ戦争やガザの虐殺をやめさせることができるかもしれない。しかしそうはならない。その最大の理由は、ウクライナ戦争の場合、「国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任を有する」はずの安保理の構成国たるロシア自身が、それとは真逆の行動をしているからであり、またイスラエルによるガザのジェノサイドについては、アメリカが一貫してイスラエル擁護の姿勢をとり、ジェノサイドを見過ごしているからである。イスラエル政府は、アメリカの支持が期待できる限り、ジェノサイドをやめようとは思わないようである。国際社会からの批判を軽く受け流している。我々には自分の安全のためなら何でもする権利がある、と公言してはばからない。かれらはハマスを殲滅すると叫んでいるが、ハマスを殲滅するとは、ガザのパレスチナ人を根絶やしにするという意味である。
これでは救われない、という声が、地球社会のあちこちから聞こえてこないわけではない。だが、実行力を伴った策はなかなか見つからない。この問題については、国連の機能が十分果たされていないとか、安保理があまりにも露骨な政治的思惑に振り回されているとか、そういう事情をあげて、国連の現在における機能不全を批判し、その本来期待される機能を発揮させるためには、特に安保理を中心とした国連の改革が必要だとの意見が多数寄せられている。
これまでにも、国連改革の議論はなされてきた。特に安保理については、日本も含めて、抜本的な改革を求める動きはあった。その背景には、国連の加盟国が飛躍的に増加したことがある。新たに加入した国には発展途上国が多いが、そうした発展途上国を中心にして、国連における加盟国間の平等とか、民主主義的な運営への期待といったものが表明されてきた。それがうまくいかず、改革が進んでこなかった理由は、国連というものが背負っている歴史的な事情のためである。先ほども言ったが、国連は第二次大戦の勝利国が中心となり、戦勝により得た利益を確保することを目的に作られたものである。国連は、英語では United Nationsと表記されるが、これは第二次大戦中に連合国側が自称した名称である。その連合国側の体制がそのまま国連の体制につながった、というのが歴史的な経緯である。そういう歴史的な事情が、国連改革をむつかしいものにしている。
国連改革の議論は起こるべくして起こるものだと思うが、おのずから限界がある。国連は、第二次大戦の戦勝国が自国の利益を守るために作ったものであるから、そうした国の利害を根本から脅かすような改革は受け入れられない。利益の最たるものは、安保理における常任理事国の拒否権である。これがあるために、ある常任理事国にとって死活的に受け入れがたい政策は決して実現しない。そのことはどの国もわかっているようで、拒否権を認めることを前提に、その行使にたがをはめるとか、あるいは常任理事国の数を増やすとかという議論がなされてきた。日本は、一時(小泉政権の時代に)常任理事国入りを目指して運動をしたことがあったが、挫折した。同盟国として一番期待したアメリカが、常任理事国の拡大に否定的だったためである。アメリカは日本を属国扱いできているので、日本の常任理事国入りには反対ではなかったようだが、常任理事国の拡大には反対だった。常任理事国が増えることは、国連が第二次大戦の勝利国による産物だということの意味合いを薄めるからだ。
今般のロシアによるウクライナの侵略については、ロシアを非難する決議も、ましてやロシアを軍事的に威圧する決議も、安保理はできなかった。そのため、安保理にロシアがいる限り、国連はあってもなきが如しであるから、諸悪の根源であるロシアを国連から追放しようという極論も出てきた。しかしもしそれが実現したら、国連は国連ではなくなってしまい、一部の国によるただの同盟に成り下がってしまうだろう。一方、イスラエルの蛮行については、アメリカがこれを擁護しているため、何ら有効な手立てがとれず、国際社会は傍観するのみである。さすがに、アメリカが拒否権を乱発することを以て、アメリカを国連から締め出そうという声はあがっていないが、アメリカのダブルスタンダードが、国連の理念を毀損していることは間違いない。今や国連は、無能を批判されるだけでなく、そもそも何のために存在しているのかという根本的な疑問を突き付けられてもいる。
そんなわけで小生も、小生なりに国連の存在意義について考えるようになった。たしかに国連が第二次大戦の戦勝国の利害のために作られたという歴史的な経緯はあるが、しかしいま、国際社会の総意を議論できる場は国連しかない。だから、今の国連をつぶしてしまうというのは、国際社会にとって懸命なこととは思われない。いまの国連を前提として、国際社会のよりよい姿を作りあげるにはどうしたらよいか、という観点から問題を議論するほかはないと思う。そのためには、大国には責任があるということをわきまえさせ、また、ダブルスタンダードは許されないというコンセンサスを徹底するほかはないのではないか。いくら拒否権を持っているからと言って、無条件に許されるものではないということを、大国に思い知らせる、ということくらいしか、今のところは思い浮かばない。
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