辻浩和は日本中世史の研究者で、「中世の遊女―生業と身分」などの著作がある。その辻が、今般東京芸術大学大学美術館で開催された「大吉原展」について、「遊女はなぜ描かれたか」と題する批判的なコメントを出した(雑誌「世界」2024年8月号)。この展覧会は、開催前からSNS上で話題を集め、いわゆる炎上を引き起こしたという。炎上した理由は、この展覧会が、吉原が人身売買や性的搾取が行われていた場であったことに無自覚で、買う側に立って遊郭を美化しようとしているのではないかとの疑惑を呼んだことにある。主催者側ではそうした指摘を受けて、「大吉原展の開催にあたってー吉原と女性の人権」と題する声明を出し、吉原遊郭が女性の人権を軽視していたことを認めるにやぶさかではないと弁明したのだったが、辻が実際に会場に足を運んで見た結果得た印象は、「制度の犠牲になった遊女たちなしにはあり得なかった吉原の文化と歴史を再考する機会」にはなっていなかったというものだった。
主催者側には、随分厳しい指摘である。小生はこの展覧会を見たわけではないので、自分自身の印象に基づいてコメントすることはできないが、遊女の歴史については、自分なりの問題意識を持っていたので、そういう観点から辻の批判について考えてみたいと思う。
辻が展示を見て最も不満に思ったのは、「吉原が文化を発信していたという言葉が何度も出てくるが、それを発信する主体が誰なのか、その発信が誰に何をもたらしたのかが最後まで分からなかった点である」という。「展示解説では<どのように>描かれているかが詳細に説明されていたが、<なぜ>描かれているかはほとんど語られていない」というのだ。
そう指摘したうえで辻は、遊女絵についての自身の見解を述べる。それを簡単に要約すると次のようになる。遊女絵の相当部分は、遊女屋ないし遊女の広告・宣伝のために制作・販売されたのであって、要するに客を売買春に誘うための有力な手段として使われた。つまり、本展が吉原の文化と呼ぶものの多くは、実は性の売買と不可分なものとして生み出された。それを無視して、吉原遊郭の美的・文化的側面ばかり強調するのは片手落ちだ、というのが辻の見解である。
このように辻は、文化と性売買を切り離し、文化の面ばかりに焦点をあてるのは、歴史を歪曲するものだと言いたいようである。たしかにその通りであろう。だが、吉原の文化には、それなりの独自性もあり、また美的・文化的な価値というべきもののあることも否定できまい。辻もそのことは認めているようである。にもかかわらず、批判にこだわるのは、主催者側が遊女の歴史についてあまりにも無知であると思ったからのようである。主催者側は、遊女というものを、日本文化の有力な要素として、古代からずっと存在してきたものとして捉えているフシがある。遊女の文化は日本文化に通底する日本特有の文化的現象であり、古代から一貫して存在してきた、というのが主催者側の見立てのようである。
そうした見方は実際の歴史とは関係がないと辻は言う。遊女が独立した生業として芸能を営んでいたのは13世紀半ばごろまでであり、13世紀以降の遊女は性売買を主軸とするようになる。徳川時代には、遊女屋だけを集めた遊郭街が形成される。吉原はその代表である。明治以降は、遊郭が全国規模に拡大する。そのほとんどは性売買の場である。こうした歴史を無視して、遊女の美的・文化的側面ばかり強調するのでは、遊女についての正しい認識を妨げるものだ。というのが辻の強い信念のように思える。
遊女を美的対象と見るのは、荷風散人をはじめ日本の多くの文人の共有するところである。樋口一葉でさえ、遊女の美的な価値を認めている。ただ、遊女には性的売買の被害者の側面があることを見失ってはならない。荷風散人は、三ノ輪の浄閑寺を訪れ、若くして死んだ吉原の遊女たちをしのんだ。彼女らが、性的に搾取されたあげくにこの寺に投げ込まれたことを散人はよくわかったうえで、彼女らの遊女としての魅力に敬意を表したのだった。そういう多面的な見方を失ってはならない。そのように辻は(荷風散人には言及していないが)、思っているようである。
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