リゾーム ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む

| コメント(0)
ドゥルーズとガタリの共同執筆論文「リゾーム」は、1976年に独立した論文として発表され、日本でもすぐに翻訳が出たほど注目を浴びた。その後、一部手直しをして「千のプラトー」の序文として取り入れられた。まさしく「千のプラトー」の序文にふさわしい文章である。「千のプラトー」は、差異の思想にもとづいて世界の再解釈を実行するという使命を持たされているが、「リゾーム」というアイデアは、その世界再解釈のエンジンとなるべき要素を含んでいるのである。

リゾームは根茎を意味するフランス語である。根茎は地下茎の一種で、根に似た茎が地中を縦横にはい、茎の節から芽を出す性質をもつ。タケやハスが根茎の代表的なものである。その根茎のイメージをドゥルーズ=ガタリは樹木のイメージに対立させる。樹木は幹を中核とし、枝や葉やまた根などが整然とした秩序を形成する。つまり秩序の典型なのである。それに対して根茎は、樹木のような明確な秩序をもたない。かといって全く無秩序というわけではない。それ相応の独特の秩序はもっているのだが、それは樹木のような明確に体系化された秩序ではない。じつに変化にとんだ、融通無碍なところがある。その融通無碍な自由闊達というべきものを、ドゥルーズらは世界の見方を変える原理としてとらえる。リゾームの原理によれば、樹木の原理に従った見方とは全く違った相において世界が見えてくるだろうとかれらは考えるのである。

樹木と比較したリゾームの特徴をドゥルーズらは次のように具体的に説明する。まず、連結と非等質性の原理。「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。これは一つの点、一つの秩序を固定する樹木ないし根とは大変ちがうところだ」(宇野ほか訳)。非等質性とは、リゾームが樹木のような均一な原理からなっていないということだ。次に多様性の原理。これは非統一性ともかかわりがあるが、「主体ないし客体としての<一者>、自然ないし精神的現実としての、イマージュかつ世界としての<一者>と、もはやいかなる関係も持たない」ことである。次に、非意味的切断の原理。「これは諸構造を分かち、あるいは一つの構造を横断する、あまりに意味を持ちすぎる切断に対抗するものだ。リゾームは任意の一点で切れたり折れたりしてもかまわない。それ自身のしかじかの線や別の線にしたがってまた育ってくるのだ」。ついで、地図作成法及び複写術の原理。樹木は同一性の原理に立ち、その同一性をもとに、自分のコピーを作り続ける。それに対してリゾームは、自由に書き入れ可能な地図のようなものである。「地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解可能、裏返し可能なものであり、たえず変更を受け入れることが可能なものである。

以上を簡略化して言うと、「樹木状システムは序列的システムであって、意味性と主体化の中心、組織された記憶、そしてまた中心的自動装置を含んでいるものである」のに対して、リゾーム状システムは、「序列的でなく意味形成的でない非中心化システムであり、<将軍>も、組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通のみによってのみ定義されるシステムなのだ」。そのリゾームの構成要素として彼らはプラトーを位置付ける。プラトーとは、「表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべて」をさす言葉である。

ドゥルーズらは、西洋の伝統的な思想が樹木状システムからなっていると考え、それを解体するためには、というのも彼らの共通の目的が西洋思想の伝統を解体することであるからなのだが、その解体の原理としてリゾーム状システムをとりあげるのである。だからリゾームとは単に現実を解釈するための新しい概念装置というにとどまらず、西洋文明全体を解体・再構築するための革命的な原理ということになる。

リゾームは、多様性や融通無碍性あるいは遊動性といった特徴を持っている。多様性は同一性のアンチテーゼであり、融通無碍性は中心化・主体化のアンチテーゼであり、遊動性は定住性のアンチテーゼである。同一世とか中心化・主体化とか定住性といったものは、いずれも西洋の思想的な伝統を支えてきた原理である。その原理にアンチテーゼをぶつけ、まったく異なった原理を提示することで、ドゥルーズらは西洋的な思想の伝統に風穴をあけようというわけである。

この小論の末尾をドゥルーズらは次のような言葉で結んでいる。「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞「である」を押し付けるが、リゾームは接続詞「と・・と・・と・・」を生地としている」。「千のプラトー」と題したこの書物は、そのもの自体がリゾームであり、リゾームの立場から世界を構成しなおすのである。リゾームからは、いつでもどこからでも新しい芽がでる。その芽が成長することによって、世界が生成変化する。世界の本来のあり方は定在することではなく、生成変化することだ。そうドゥルーズらは考えるのである。






コメントする

アーカイブ