正法眼蔵第五十は「洗面」の巻。洗面とは文字通り顔を洗うことである。その顔を洗うことで、心身清浄を代表させている。悟りの境地を目指すには心身ともに清浄でなければならない、という意味をこの言葉に込めているのである。心身清浄は、なにも洗面だけの問題ではない。あらゆる機会をとらえて心身全体を清浄に保たねばならぬ。その中には嚼楊枝も含まれる。楊枝を使って口腔内を清潔にしておかねばならぬ。口から悪臭を漂わせていては、さとりを目指すもない。この巻は、前半で洗面について、後半で嚼楊枝について、その意義やら心得についてことこまかく説くのである。
この巻は、法華経安楽行品の次の言葉から始まる。「油を以て身に塗り、塵穢を澡浴し、新淨の衣を著し、内外倶に淨らかなり」。この言葉について、道元は次のような注釈を加える。「身心を澡浴して香油をぬり、塵穢をのぞくは第一の佛法なり。新淨の衣を著する、ひとつの淨法なり。塵穢を澡浴し、香油を身に塗するに、内外倶淨なるべし。内外倶淨なるとき、依報正報、清淨なり」。体の汚れを洗い清め、身に香油を塗れば、内外ともに清浄になる。内外とは心身と同義である。
そのうえで、まず洗面について、次に嚼楊枝について、その意義と心得をことこまかに説く。洗面はインドから中国に伝わって広く流布した。洗面は仏教修行にとってもっとも重要なことであり、それを欠くのは罪深いことであるから、必ず洗面せねばならない。洗面の時期は、基本的には五更あるいは昧旦である。洗面には手巾を用いる。洗ったあとに拭くためである。手巾のサイズや折りたたみ方にも作法がある。その用い方にも作法がある。そうした作法をよくわきまえて洗面し、心身を清浄に保つべきである。
ついで、嚼楊枝。これは楊枝を使って口腔のなかを清潔に保つことである。楊枝は小指ほどの大きさで一端がとがっており、そのとがった部分で歯を磨く。歯を磨くことを道元は「かむ」といっている。「よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろへ、きよくあらふべし。嗽口たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし」というのである。
嚼楊枝は非常に重要なことなのに、どういうわけか、大宋国では実行されていない。かれらは馬の尻尾を楊枝代わりに使って、形ばかりに歯を磨いているのみである。そのため、口臭をのぞくことができない。「しかあれば、天下の出家在家、ともにその口氣はなはだくさし。二三尺をへだててものをいふとき、口臭きたる」というありさまである。
道元は口臭をかなり気にしていたようで、口臭を出さないために、嚼楊枝は必要だと思ったのだろう。かれの楊枝へのこだわりは相当のものである。
大宋国では、洗面はよく行われているが、嚼楊枝は行われていない。日本は逆で、楊枝はよく使われているが、洗面は軽視されている。それを道元は、「一得一失なり。いま洗面、嚼楊枝、ともに護持せん、補虧闕の興なり、佛の照臨なり」と言っているが、洗面を忘れるよりは、楊枝を使わず口臭を出す方をより嫌悪しているようである。
なお、奥書によれば、この巻の内容は、三度にわたって示衆されている。最初は道元三十九歳の時、二度目は道元四十三歳の時、三度目は道元五十歳の時。つまり若い頃から晩年にいたるまで、洗面・楊枝にこだわっていたことが伝わってくる。
コメントする