狼はただ一匹か数匹か ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む

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ドゥルーズ=ガタリの共著「千のプラトー」は、15のプラトーと称される章から構成される。そのうち第一のプラトーである「リゾーム」は著作全体の序文の役割を果たしており、第二のプラトー以下が本体部分をなす。その冒頭に位置するのが「オオカミはただ一匹か数匹か」という奇妙なタイトルを付せられた文章である。これはフロイトの精神分析を批判した文章である。タイトルにある狼とは、フロイトが1915年に発表した有名な症例分析のテーマとしたものである(この「狼は・・・」と題する小論には1914年という年号が付されている)。その症例分析のなかでフロイトは、狼をオイディプスと結びつけて論じていた。その分析手法をドゥルーズらは批判するのである。精神分析批判は、二人の最初の共著「アンチ・オイディプス」でも展開されていたから、狼についてのこの小論は、「アンチ」と「千の」を結びつける役割を果たしているともいえる。

「狼はただ一匹か数匹か」という具合に狼の数にこだわるのはなぜか。それがわからないとこの小文の趣旨は理解できないだろう。フロイトは症例研究の中で狼を無意識の産物としてとらえ、それをオイディプスと結びつけたのであった。オイディプスとは父親へのコンプレックスが形をとったものである。そのコンプレックスの底には母親への近親相姦の抑圧が隠されている。ということは、狼が表現しているオイディプス・コンプレックスは家族関係の病理ということになる。世界から切り離された患者の無意識的な欲動を家族関係に即して説明するフロイトのやり方を、ドゥルーズらはパパ・ママ・ボクの三位一体として厳しく批判していた。そんな三位一体では、患者の実際の感情は理解できないし、治療もままならない、というのがドゥルーズらの基本的な見方である。この小論の最初の文節の中でもかれらは、「フロイトは狼のことなど何もわかっていないし、肛門のことだって同じだ」と言っている。かれらがこういう文脈で肛門を持ち出すのは、肛門は単に小児性欲には還元できない、もっと大きな意義をもつ性的器官なのだと考えるからであろう。

肛門はいったん脇へ置いて、フロイトの狼についてのドゥルーズらの批判に戻ろう。ドゥルーズらがフロイトの狼を批判するのは、狼をオイディプスの変身したものとして極めて狭く解釈していると考えるからである。フロイトは狼をいわゆる一匹狼として、それ単独に生きるものとして捉えている。しかし実際はそうではない、とかれらは考える。狼というものは本来群れを作るものであり、その群れは単一的な行動をとるようなものではなく、きわめて多様な行動をとる。その多様な行動は、群れとしてもその群れの個体としても現れる。狼は、フロイトのように一義的な存在として捉えるのではなく、多様体として捉えるべきなのである。フロイトが狼をオイディプスと結びつけるとき、かれはそのオイディプスを単一なるものとし、その単一なるものに狼を還元しようとする。しかし、狼は群れであり、「あるがままに一瞬にして把握される多様体、ゼロへの接近と遠ざかりによって、そのたびに分解不可能な距離によって把握される多様体なのだ」。

狼をそのように捉えることでドゥルーズらは、狼をリゾームと結びつける。リゾームとは多様体の原理であった。多様体の原理は、西洋思想を根底において規定してきた同一性の原理を掘り崩す力をもつ。その力によって西洋思想の伝統を掘り崩そうというのがドゥルーズらの根本的な姿勢である。つまりかれらは、狼という同じものを取り上げながら、フロイトとは真逆なことをなそうとする。フロイトが狼を単一性、同一性に還元しようとするのに対して、かれらは多様性と結びつけるのである。

狼の習性に関連して、かれらは群衆と群れの差異に注目する。群衆とは主体性を持たない匿名の個人からなる集団である。群衆の成員は個人としては行動しない。群衆のリーダーの言いなりになるだけである。そこに現代社会をむしばむ全体主義の要因がある。一方、群れとは個性を保った個体からなる集団である。群れの中で個々の成員は主体性を失わない。だから群れのリーダーは成員を一方的に支配できない。成員に命令を出すためにはかれらにその必要性を理解させる手続きが必要である。だから群れのリーダーは「一手一手に勝負をかける。つまり彼は一手打つたびにすべてを新たに賭け直さねばならないのだ。これに対して群衆のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資本化するのである」。

群衆のなかで主体性を失ったような個人を愛するわけにはいかないとドゥルーズらはいう。誰かを愛するとは、ある特定の一人を群衆の一員としてではなく、一人の個人として、群衆や家族など彼がかかわりあっている集団から切り離して、彼を一人の人間として捉えたうえでなければ愛することはできないとかれらは言う。しかしてその愛すべき人間は、単純で変化のない個体ではなく、多様性に満ちた存在なのである。そのことをフロイトはわかっていないと彼らは批判する。「去勢、去勢、と精神分析の案山子はわめく。それは狼たちのいるところに、一つの穴、一人の父親、一匹の犬しか見てとったためしがなく、野生の多様体があるところに、飼い馴らされた一個人しか見てとったためしがないのだ」とかれらは言うのである。






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