面授 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第五十一は「面授」の巻。面授とは、師が弟子に面と向かって伝授することをいう。あるいは弟子が師から目の当たりに伝授されることをいう。伝授の内容は正法眼蔵である。正法眼蔵が面授されるということは、師と弟子との関係は、直接的なものでなければならないということを意味する。正法眼蔵は、経典を読むだけでは得られず、また、昔の聖者の教えを聞くことでは得られない。師(仏祖)から直接伝授されるのでなければならない。

面授の模範は釈迦牟尼仏自身が示している。それを道元は巻の冒頭で示している。「爾の時に釋迦牟尼佛、西天竺國靈山會上、百萬衆の中にして、優曇花を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑せり」。釈迦牟尼が優曇花を拈じて瞬目すると、摩訶迦葉尊者がそれに答えて破顔微笑した。この面と向かい合っての伝授こそが面授なのである。それを釈迦牟尼仏は次のように言う。「吾有の正法眼藏涅槃妙心、摩訶迦葉に附囑す」。いま私がもっている正法眼蔵涅槃妙心を、汝摩訶迦葉に附囑すと。附属は授与と同義である。

釈迦牟尼仏と迦葉尊者の間で行われた面授は、迦葉尊者以降代々繰り返されてきた。「迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦國に降儀して、正宗太普覺大師慧可尊者に面授す。五傳して曹谿山大鑑慧能大師にいたる。一十七授して先師大宋國慶元府太白名山天童古佛にいたる」。そして道元自身は、天童古佛から正法眼蔵を面授されたのである。

各世代は、それぞれ面授をつうじて連綿とつながっている。「これをあひつたへていまにいたるまで、一世も間斷せず面授しきたれるはこの面授なり・・・葛藤をもて葛藤に面授してさらに斷絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授し、面受す。面授は面處の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を身授するなり」。

面授でなければ、正法眼蔵が伝授されることはない。「一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子をみざれば師にあらず。さだまりてあひみ、あひみえて、面授しきたれり。嗣法しきたれるは、祖宗の面授處道現成なり。このゆゑに、如來の面光を直拈しきたれるなり」。代々面授を通じて、釈迦牟尼の教えがいまに至るまで断絶せずに受け継がれてきたのである。道元は、自分もまたその流れに直接つながっていると自覚している。

この巻には付属の部分があり、そこで承古禅師というものへの批判がなされる。承古禅師は、雲門大師をよく知っているといった。ところが雲門大師は百年も前に死んでいるのである。それをなぜよく知っているなどと言えるのか。よく知っているというのは、面授を通じてでなければならない。そのことを黄檗はよく知っていた。黄檗は馬祖をつぐべきと目されていたが、すでに5年前に死んだ馬祖とは面授の関係になれない。したがって自分は馬祖の弟子を自称することはできないといった。その故実を鑑みるに、承古はじつにけしからぬことを言っていることになる。かれは百何年も前に死んだ雲門大師とは、面授の関係になることはできないのだ。

最後に道元は次のような激しい言葉を承古に投げつける。「なんぢ雲門大師に嗣すといふことなかれ。もしかくのごとくいはば、すなはち外道の流類なるべし」。






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