井伏鱒二は、随筆にも味わい深い作品がある。晩年に差し掛かるころから、自分の身辺に取材した随筆を結構書いている。ここでは、昭和36年に刊行された随筆集「昨日の会」から「猫」「琴の記」「おふくろ」を取り上げたい。
「猫」は、井伏と一匹の猫の交流を描いたものだ。この猫は野良の三毛猫がたまたま迷い込んできたのを井伏がネズミをとらせることを目的に飼ったのだった。時期を同じくして近所から生まれたばかりの猫をもらったのだが、即戦力にはならぬとみてその猫を返し、かわりにこの三毛猫を家に置いたのだった。
猫に続いてチャボが迷い込んできた。猫は最初そのチャボを狙ったが、奥さんが叱っているうちに狙わなくなり、かえってほかの猫が来ると追い払ったほどだった。チャボは三ケ月くらいたってやっと卵を一つ生んだ。チャボは生み始めると続けて生むというので、楽しみにしていると、隣の町内の見知らぬ夫人がやってきて、そのチャボは自分のものだといって持ち去ってしまった。それ以来井伏は、家に迷い込んできた動物は置かないことにした。
あるとき、井伏が庭にいるとき、鎌首をもたげたマムシを見た。井伏は危害を恐れて後ろへ下がったところ、猫が果敢にマムシに挑戦した。猫はマムシの習性をよく知っていると見えて、安全を確保しながらマムシを攻撃した。猫ながらなかなかのものである。そのうち井伏が鳶口でマムシの頭を押さえると、猫はマムシの首にとびついて皮をはいだ。目に止まらぬ早業であった。それ以来井伏はこの猫に一目置くようになった。猫もそんな井伏の気持ちを、動物の直感でわかっている様子だった。
この随筆を書いている頃には、猫は13歳以上になっていた。猫としては大した年寄りではないのだろうが、五年前に難産して帝王切開手術を受けてから、すっかり弱ってしまい、子も産まなくなった。それを奥さんは喜んだ。ところで、チャボについては面白い余談がある。知り合いの斎藤さんが飼っているチャボが、いまは二代目なのだが、その親子が引き写しに似ているので、同じチャボにしか見えない。チャボは同じなのに、自分だけは年をとったと思うだろうじゃないか。そう井伏が奥さんに言ったところ、奥さんは別の考えをもっていた。「うちの三毛を見ている方が、まだ光陰矢の如しです」というのだ。そのうえで、亭主のいっていることがわからないという。そこで亭主の井伏は、うちの猫はチャボと違って年をとってしまったのだから、「共に老けましたというべきだ」と思うのである。
「琴の記」は、太宰治の最初の妻が井伏の家に預けておいた琴をめぐる話である。太宰は井伏に弟子入りしたこともあって、井伏は太宰の面倒を見ていたようである。その太宰が最初の妻初枝を離婚したさい、初枝は青森の実家にかえる支度をする間、一か月あまり井伏の家に世話になった。その折に琴を持参したのだったが、青森に帰るに際して、その琴を置いていった。その後初枝は中国の青島と日本を往来するようになり、昭和44年に青島で死んだ。その初枝の思い出のまとわりついた琴についての話なのである。
井伏は、太宰の縁者からこの琴の由来をきくと、なかなか由緒を感じさせる琴で、人にゆずるにしても、滅多な人にはゆずれないと思った。そう思っている所へ、有名な筝曲家の古川さんが井伏の家を訪ねてきた。井伏は琴を持ち出して古川さんに見せた。古川さんは、まず琴爪を見て、「この爪は生田流ですが、琴は山田流です」といった。井伏はぜひ古川さんに引き取ってもらいたいと思っていたので、のっけから不安を感じたが、古川さんは琴を弾いてみて感心したようだった。井伏が床の間に三好達治の二行詩を半折にしてかけたところ、「太郎を眠らせ」で始まるこの有名な詩を歌いながら琴を弾いた。その後もしばらく弾いていたが、井伏が是非引き取ってくれというと、押し問答をしたあげくにその琴を自動車にのせて持ち帰った。
琴をめぐるちょっとした話だが、行間には太宰に虐待された初枝への同情が感じられる。
「おふくろ」は、井伏の母親にたいする思いを淡々と語ったものである。これを読むと井伏が母親をかなり冷めた目で見ていることが伝わってくる。その母親は、この文章を書いた時点で86歳である。その母親が息子の井伏に向かって、「あたしゃもう、えっと生きたような気がするが」という。それを息子の井伏は、「えっと生きたという方言は、さんざん長生きしてしまった、もう沢山だという意味をもっている」と解釈する。息子の井伏自身は95歳まで生きた。
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