「千のプラトー」の第三のプラトーは「道徳の地質学」と題されている。このタイトルはニーチェの「道徳の系譜学」を意識したものだろう。ニーチェはその言葉によって、道徳の起源とその歴史的な生成変化を意味したものだったが、ドゥルーズ=ガタリも同じような意味作用をこのタイトルに込めたようである。地質はある特定の時代を象徴するものだ。というか、ある時代のトータルなありかたを地層という言葉で表現している。系譜という言葉には連続性を感じさせるものがあるが、地質という言葉には、連続性よりも重なり合いという意味合いを強く感じる。重なりあう者同士は融合することはないから、連続性よりも断絶性を強く感じさせる。ドゥルーズは生成変化を必然的なプロセスとは考えず、むしろ偶然のたまものと考える傾向が強いので、系譜学よりは地質学のほうが自分の考えに似合っていると思ったのであろう。
この著作を構成する15のプラトーにはいずれも、題名の一部に特定の時間が付されている。このプラトーの場合には「BC10000年」とある。おそらくその時点を人類文明の始まった時期と見て、それを以て道徳の地質学の始まる時点と見たのであろう。
そこでその地質学のいう地質という言葉を、ドゥルーズらはどう定義しているのかが問題となる。ところでこのプラトーは、コナン・ドイルの一連の小説の主人公として知られるチャレンジャー教授の講演という体裁をとっている。そのチャレンジャー教授は、「この大地~脱領土化された世界、大氷河、一巨大分子としての地球~は、器官なき身体そのものである」と断ったうえで、「地層はまさに『層』であり、『帯』であって、その本質は、物質に形を与え、共鳴と冗長性にもとづく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある」(宇野ほか訳)と断言している。
「器官なき身体」などという言葉がいきなり出てくるので、読者のなかには面食らうものもいることだろう。この言葉には色々な意味があるが、ここでは分節化される以前の生の素材というような意味合いで使われている。その生の素材が分節化されることで、さまざまな形態が生まれると考えるのがドゥルーズの生涯変わらぬ見方であった。ここでの文脈からいえば、器官なき身体としての地球は、分節化される以前の純粋な素材としての地球である。その地球に最初の層ができる。それが文明の始まりである。層というのは、ある特定の時代の地球のありかたを総合的に言い表したものである。層は、堆積と褶曲という二つの要素からなっている。堆積というのは、層を構成する素材のことである。その素材が降り積もって堆積をなす。一方、褶曲とは、堆積した素材に一定の形を与えるものである。堆積は内容と言い換えられ、褶曲は表現と言い換えられる。また内容は分子状を呈すといわれ、表現はモル状を呈すともいわれる。
ともあれドゥルーズらが言いたいのは、分節化される以前の(器官なき身体としての)原地球というべきものがあって、それが分節化され、地層化されることで、人間の文明が始まるということのようである。文明が始まった時点は期限前10000万年前のことであるとされる。こうした理解は宇宙科学の常識とはかけ離れているが、ドゥルーズらは宇宙科学者からの批判をあてこんで、これはあくまでもチャレンジャー教授の見解だと断っているのである。
地層の二つの構成要素である堆積と褶曲は、内容と表現に対応すると言った。内容と表現は、質量と形式の対立とは異なる。内容にも表現にもそれぞれの形式があると考えられるからだ。内容と表現に対応するのは、先ほども触れた分子状とモル状の対立のほか、多様性と統一性の対立などがある。この対立では、表現、モル状、統一性のほうが有力な働きをする。統一性というのは、さまざまなものを同一性の概念に括り付けるような運動である。ドゥルーズらは、同一性よりも多様性を重んじるから、多様性と相並ぶ要素である内容、分子状、脱領土化といったものを重視する、脱領土化とは、一旦領土化されたものが、領土の強要するコードから自由になる働きのことで、脱コード化ともいわれる。人間の活動は一定のコード化されたものであって、それによって人間の行動は安定するものの、創造的な働きは弱まる。だから創造的になるためには、多様性とそれと相並ぶ概念を重視する必要がある、とドゥルーズらも考えているようだ。チャレンジャー教授も無論そう考えるであろう。
ともあれ、このプラトーの主題である地層とは、特定の時代の人間社会の在り方を規定する概念である。そのあり方のことをドゥルーズらはアレンジメントと言っている。アレンジメントには、コード化という要素もあるが、脱コード化の要素も含まれる。要するに、コード化・脱コード化、あるいは領土化・脱領土化を含めて、特定の時代の人間の文明一切を説明するのが地層という概念なのである。地層は、人間の思考や行動のパターンを支配するものであることから、フーコーのいうエピステーメーと似ていなくもない。しかしフーコーのエピステーメーがかなり主知的な概念であるのに対して、地層という概念は、もっと包括的なものだ。
ある地層から別の地層にかけて何が変化していくかを、内容と表現の観点から問うことが大事だとドゥルーズらはいう。内容と表現はそれぞれ堆積と褶曲に対応し、堆積は素材、褶曲は素材を形に変えるものを意味した。その素材と形態化の組み合わせがどのように変化するか、それを見ることで、ある地層から別の地層への変化の実態がよくわかるというわけであろう。これをもう一度フーコーのエピステーメーと比較すると、エピステーメーには突然変異の性格が強く指摘されるのに対して、地層には斬新的な変化という性格を指摘できそうである。
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