言語と記号は、互いに深い関係にあるというのが通常の見方だ。言語が記号の一種だという見方もあり、逆に記号は言語によって基礎づけられているといった見方もある。どちらにしても言語と記号は互いを前提としあっているというのが通常の見方である。それに対してドゥルーズ=ガタリは異なった見方を提示する。それをごく簡単にいうと、言語と記号はそれぞれ独立したもので、かならずしも相互にかかわりをもつことはないというものだ。言語と記号を相互関係性において見るのではなく、それぞれ自立した相において見るわけである。
「千のプラトー」では、第四のプラトー「1923年11月20日―言語学の公準」が言語について、第五のプラトー「BC587年、AD70年―いくつかの記号の体制について」が記号について、それぞれ論じている。まず、言語について。ドゥルーズらの言語論の特徴は、言語を権力と結びつけて論じるところにある。言語の本質は情報の伝達ではなく、命令して、それに従わせることにある。彼らはシュペングラーの「言葉の根本的な形態は、判断の言表でも感情の表現でもなく、命令、従属の証拠、断言、質問、肯定または否定であり、生に対して命令し、事業や大工事と切り離せない短い文章である」という言葉を引用しながら、言語の権力的な性格について論じる。言語は服従を強いるものであるから、したがって指令語が言語の根本単位である。指令語とは、単なる情報の伝達ではなく、なにか具体的な行動を相手に強いることを内実としている。
指令語は、命令することを基本目的とするが、命令を超えて、社会的義務によって言表と結びつくあらゆる行為にかかわる。ということは、指令語としての言語は、社会的な命令・服従・合意といった人間集団の政治的なシステムを成り立たせるための基盤であるということだ。言語は無論、情報の伝達を通じて人間相互の関係を動かす作用をもってはいるが、それ以前に、集団の全成員に向かって集団としての意思を直接強制するという作用をもっているのである。
指令語は、権力者から被支配者に向かって直接発せられるばかりではない。それではあまりに非効率だ。いったん権力者によって発せられた指令は、集団成員の間で(成員自体によって)スムーズに伝達されねばならない。これをドゥルーズらは間接話法と呼んでいる。「間接話法とは、報告する言表の中に、報告される言表が現われること、言表の中に指令語が現われることである。言表全体が間接話法なのだ。間接話法は直接話法を前提とするどころか、直接話法こそ間接話法から抽出されるのだ」(宇野ほか訳)。
こういうわけで、ドゥルーズらの言語論は政治学の一分野である。言語は、かれらによれば政治的な現象なのである。言語の政治的な性格は、デリダも指摘していた。デリダは、エクリチュールとしての言語には、強制的・暴力的な要素が働いていると指摘した。もっともそれは、他者に向かって露骨に命令するような性質のものではなく、対象を分節する働きに関したものである。デリダは、言語の本質である意味作用のなかに、対象を分節する働きを求め、それを言語の本質としたわけだが、その分節化の働きとは、対象の一部を切り取ることである。その切り取りにデリダは暴力的な要素を認めたわけだ。人間の認識作用自体の中に対象に向かっての暴力性を認めるというのが、デリダの特徴であって、その点は、人間同士の命令・服従を言語の本質的な要素とみるドゥルーズらとはかなりニュアンスの違いがある。
次に、記号について。記号についてドゥルーズらは。ソシュール以来の言語学の伝統を踏まえて論じている。ソシュール以来の言語学の主流は、言語を意味作用と結びつけながら論じていた。意味作用とはシニフィアンとシニフィエのかかわり方をいうが、ソシュールがその結びつきの恣意性・偶然性を強調するのに対して、ドゥルーズらは、シニフィアンの自立性に注目する。シニフィアンは、シニフィエと恣意的な結びつきをするというより、そもそもシニフィエを超越するものなのだ。その証拠に、シニフィエが消滅してもシニフィアンは生き続け、しかも自律的な体系を形成したりする(そのことを彼らは、「名前はその持ち主より長く生きのびる」と言っている)。シニフィアンの体系にあっては、シニフィアンとシニフィエとの結びつきは問題にならず、シニフィアン相互の関係が問題となる。シニフィアンの体系は、それ自体の内部に閉じられたシステムなのである。
ところで、シニフィアンだけに着目して記号を論じるやり方を、かれらはシニフィアン的な体制と呼んでいる。そしてその体制を、専制的・パラノイア的詐欺と結びつける。それに対立するものはポスト・シニフィアン的体制であり、それは情念的・権威的裏切りとかれらが呼ぶものに結びつく。そのどちらかをかれらがより重視しているわけではない。「アンチ・オイディプス」において展開されていた議論を踏まえれば、ポスト・シニフィアン的体制を重視するというのが自然な態度だと思われるのだが、そのようにはかれらは考えない。ただ、シニフィアン的記号系が国家権力と親和的であるのに対して、ポスト・シニフィアン的記号系は、主体性とか情念と親和的というだけである。
ここで刮目すべきなのは、かれらが「主体は存在しない」と言っていることである。主体が存在しなければ、ポスト・シニフィアンは意味をもたなくなるわけで、かれらがポスト・シニフィアン的体制のほうをシニフィアン的な体制より優先する理由がなくなるわけである。では何が存在するのか。言表行為のさまざまな集団的なアレンジメントが存在するのだと彼らは言うのだ。「主体化はその一つにすぎず、このようなものとして表現の形式化あるいは記号の体制を指示するのであって、言語の内的条件を指示するのではない」と言うのである。
なお、第四のプラトーのタイトルに伏せられた1923年11月20日という日付は、ドイツの第一次大戦後インフレによってマルクが無価値となり、新たな貨幣レンテンマルクが発行された日である。レンテンマルクは価値の裏付けをもたなかったので、架空の貨幣と呼ばれた。それがなぜ言語学のテーマとかかわるのか、ドゥルーズらは明確な説明をしていない。一方、第五のプラトーに付せられたBC587年、AD70年という年次は、いずれもユダヤ教寺院が破壊された年である。それがなぜ記号をめぐる議論とかかわりがあるのか、これについてもかれらはまともな説明をしていない。
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