東京体育館の思い出 落日贅言

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瑞江葬儀所の次の職場は教育庁所管の東京体育館であった。これは昭和31年から33年にかけて整備された大規模体育館で、アジア大会や東京オリンピックの競技会場として活躍、日本有数の屋内体育施設であった。老朽化のため昭和61年12月に全面改修工事が始まり、令和2年4月にリニューアル・オープンを予定していた。小生が赴任した時にはまだ完成しておらず、オープンに向けて開設準備の最中であった。開設準備という仕事はハードなものだと聞いていたので、小生は心を引き締めて臨んだものであった。

まず、例によって辞令のやりとりがある。公園協会からは、
  知事の事務部局へ出向を命じる
という辞令をもらった。ついで建設局長のところへ行き、
  東京都教育委員会へ出向を命じる
という辞令をもらった。その際、人事担当の庶務課長から、実はうちの局で頑張ってもらうつもりでいたのだが、順番がつまっていてうまく回らない、そこでいったん外へ行ってもらうことにした、というような話を聞かされた。教育庁では次のような辞令をもらった。
  副主幹を命じる
  東京体育館開設準備担当を命じる
小生のほかに、将来東京体育館長に就任する予定の人が一緒に辞令をもらった。その館長候補者とともに、体育館を所管する体育部長に挨拶しに行った。その後、千駄ヶ谷駅前に建設中の体育館を訪ねた次第である。

体育館にはすでに開設準備の先遣部隊が赴任していた。これは将来の管理課長候補をトップに、十数名の人員を抱えていた。その中には、小生の部下になるべき人材も含まれていた。小生は事業課長になる予定であった。事業課というのは、体育館主催事業及び体育館貸し出しに関する業務を担当するはずだった。

開設準備担当としての小生の当面の仕事は、こけら落としをはじめ、リニューアル・オープンを記念して実施される各種スポーツ・イベントの調整が主なものであった。こけら落としには、バレーボールの国際大会を予定していた。これはワールド・チャレンジカップといって、ワールドカップへの出場権をかけた国際大会だった。また、レスリングのワールドカップ及びバドミントンのワールドカップが予定され、そのほかハンドボール、卓球、水球などの国際大会も予定されていた。屋内テニスの世界的なイベントも男女それぞれ予定されていた。それらのイベントに関して、小生は館の窓口として、都を代表する形で打ち合わせに臨んだのであった。

この打ち合わせはなかなか大変である。とにかく、世界中から関係者がやってきて、施設の確認とか、プログラム進行上の懸念事項についてことこまかくチェックする。それを日本語で対応するわけにいかないので、小生は一念奮起して英会話の能力を磨き、自ら英語をしゃべりながら打ち合わせの場に臨んだ次第である。

館主催事業の準備もまた大変であった。館主催事業の柱はフィットネスルームの運営とプールの一般公開である。プールは、大規模イベントがない日には一般公開する。一般公開にあたってはライフガードを配置する必要がある。これの確保について、当初は体育系の大学にあたってみたがうまくいかず、一般公募したところが、かなりの数の応募があった。フィットネスのほうについては、安全確保上特別の配慮をしなければならない。そこで専門家にかけあって、それなりの体制整備を行ったりした。

オープンまで四か月しかないという状況で、毎日忙しい思いをした。終電で帰る日が続いた。さすがに疲労困憊させられた。だが、それなりに面白くもあった。とくに、イベントがらみで色々なスポーツ団体のメンバーと知り合いになったのが楽しかった。日本のアマチュアスポーツ団体は、だいたい学校の教員が手弁当でやっている。バレーボールもそうだし、水泳もそうだった。水泳の都連の会長はたしか蔵前高校の教員だった。バレーボールのこけら落としには、教師に引率された女学生たちが集団でやってきて、黄色い声をあげながら声援していたものだ。そのイベントでは、1万人以上入るメーンアリーナが満員になった。満員のアリーナはすさまじい熱気を感じさせた。

こけら落としに先駆けて、職名が変わった。それまで開設準備担当だったものが、館長、管理課長、事業課長にそれぞれ変わったのである。その辞令をもらいに教育委員会に赴いた。教育委員会は、新宿に完成したばかりの新都庁舎第二庁舎の40階以上にあった。小生の辞令には次のようにあった。
  財団法人東京都教育文化財団へ派遣を命じる
教育文化財団の辞令には次のようにあった。
  副参事に任命する
  東京体育館事業課長を命じる

事業課長としては一年間勤務した。その間、毎週のように大規模イベントがあるので、退屈しているヒマはなかった。そのイベントの中から、思い出深いものをいくつか取り上げてみたい。まず、プールのこけら落としとして日本選手権を催した。東京体育館のプールは、深さ四メートルで記録が出やすいといわれていた。四メートルあればジャンプもできるのだが、東京体育館にはジャンプ台を設けなかった。だが、深さを利用して水球やシンクロナイズドスイミングはよく行われた。水泳選手たちは、体に非常に気をつかっていて、待機の間には毛布にくるまってそこいらに寝そべっていた。それを口の悪い職員がオットセイのようなやつらだと罵った。

世界選手権規模のイベントとしてレスリングとバドミントンのワールドカップを開催したが、どちらもバレーボールのときのようなにぎやかさはなかった。レスリングは日本のお家芸であるが、小生がかかわった時には、不振に陥り、人気も低迷していたようである。バドミントンは、当時はインドネシアなどが強く、日本はまだ一流とはいえなかった。

アマチュアの世界選手権よりもプロの試合のほうが客を集めた。小生が在職していたときに催したプロの大会としては、アメリカのプロバスケの公式試合と、男女それぞれの屋内テニスのタイトル戦がもっとも客を集めた。小生の子供らがバスケットを好んでいたので、二人の子どもをつれて試合を見に行ったものである。アメリカのプロバスケはNBAといって、試合はともかく、派手なアミューズメントが特徴である。コートのすぐ間際まで観客席を設け、大勢の観客を前に、チアリーダーが派手な応援を行う。試合を見ているより、こちらのほうが楽しいくらいだ。

屋内テニスは、男子のほうはセイコースーパーテニス、女子のほうがニチレイレディーステニスといって、どちらも有力な国際大会であった。スーパーテニスを開催中に脅迫電話があった。話を聞くと館内に爆弾をしかけたという。小生はただちに原宿警察署に連絡し、休暇中の館長も呼び寄せた。原宿警察では、試合は続行させながら、館内をくまなく捜査した。結局何事もなくすんだ。スーパーレディースでは、当時人気絶頂だったナヴラチロバが優勝した。小生がコングラチュレーションと言って祝福したところ、彼女は明るい表情で応じた。女子のテニスというのは、大体が大きな声を発する。その声が、例のよがり声に似ている。グラマラスな女子選手がその声を出すと、つい聞きほれてしまう。

スポーツ大会の一つといえるかどうか、プロレスの興行を行ったことがある。そのときはじめてジャイアント馬場と出会った。出会っての印象は、非常に礼儀正しい人だということだった。

スポーツ大会以外では、歌謡祭とかファッションショーも行った。ファッションショーではコシノジュンコさんのショーが印象に残っている。大勢のモデルを連れてきて、それを仮設の小屋で着替えさせたりする。その際にモデルたちが裸になる。その様子を見た職員が小生のもとにやってきて、是非見て御覧なさいという。会場運営の職員がそんな覗き見みたいなことをするのはやめたまえとさとしたものだ。

そんなことがあったためか、或る時レオタードを見てびっくり仰天したことがある。そのレオタードは肌色の無地でまるで全裸でいるように見えたのだ。よくよく近づいてそうではないと感づいたが、人騒がせな衣装だと思った次第だ。

東京体育館在職中もっとも印象が強かったのは、日教組に教研集会を行わせたことだ。日教組の教研集会は、日本の右翼諸君がもっとも強く憎んでいるもので、開催ごとに大騒ぎになる。我が館も例外ではなかった。開催したのはたしか二月のことだったが、そのかなり前から右翼による脅迫電話が館に入るようになった。その脅迫を職員たちは恐れ、管理職の責任において対応してもらいたいなどと、組合を介して申し入れてきた。そこで、小生がもっぱら矢面に立つようにした。それと併せて、警視庁と密接な連絡をとりあった。警視庁では、公安と警備とでニュアンスが異なり、公安が右翼にかなり気を使っているのに対して、警備のほうは自信たっぷりといった様子に見えた。日教組の教研集会くらいやらせてやろうというのである。だいたいこの教研集会をなぜ当館が受け入れたか。所管課長として情けない話だが、実は教委の上層部が事前に知っていた可能性がある。教委の上層部とは何度か会議をもち、日教組側とも連絡しあったが、その際の印象から、そんな感じを抱いたところだ。

教研集会の当日、二百台ばかりの街宣車が押し掛けてきて、大音声をあげながら館の周囲を走りまわった。それに対して警視庁のほうは、せいぜい百人くらいの警官を動員したに過ぎない。集会が終わると右翼の街宣車はすぐにいなくなり、何事もなかったかのような平穏さが戻った。教委では、警視庁の果たした役割に大いに感謝し、その気持ちをこめて警備担当の幹部らを接待した。その席に小生が連なったのはいうまでもない。

結果的にたいしたことにはならずに済んだが、一か月あまりの期間にわたり、小生がかなりの緊張を強いられたことは間違いない。その緊張が顔にも現れたのであろう。あるとき、新規採用したばかりの社会体育の女子職員から、課長がそんな怖い顔をされているので、私までつらくなってしまいます、と半分泣きべそ顔で言われたことがあった。

館長と小生が他の部局へ転任したのは教研集会終了後初の人事異動にあわせてである。右翼対応に苦心したことに対する慰労というような意味合いを感じたものだ。その時の教育長は、清掃局の庶務課長や工場管理部長などをやったことのある人で、小生のこともよく存じてくれていたはずである。なお、小生が転出したあと後任は来ずに、事業課長職は小生一代限りで廃止された。リニューアル・オープンがうまく運び、館の体制が整備されたので、もう不要になったと判断されたのであろう。






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