「ジョン万次郎漂流記」は、昭和13年の直木賞受賞作品であり、井伏の作家としての地歩をゆるぎないものとした。この作品はもともと河出書房の「記録文学叢書」シリーズの一冊として、昭和12年に刊行され、その際には「風来漂民奇譚ジョン万次郎漂流記」というタイトルであった。井伏には、漂流民への関心があったとみえ、若い頃の作品には「無人島長平の墓」といったものがあり、また、戦後には「漂民宇三郎」のような作品を書いている。
井伏本人の供述によれば、これは他人から借りた「漂流奇譚全集」というものを素材に使って、「記録を並べてみただけだから、これは小説ではなく」とあるから、記録文学ということになろうか。たしかに、この小説は、小説らしきところがあまりない。事実を淡々とならべ、その合間に作者の意見をさしはさむことをなるべく抑制している。
ジョン万次郎については、幕末期に漂流してアメリカに暮らした経験をいかし、明治維新に多少の貢献をした人物としてよく知られていた。かれの漂流の様子とか、また後年の政治へのかかわりなどについて、多くの人が評伝を残している。井伏はそうした評伝のうち、石井研堂の「中浜万次郎伝」を底本に使った。石井自身は、戸川残花の「中浜万次郎君伝」などを材料にして、少年向きの読み物として書いた。漂流体験が主体である。
ジョン万次郎という呼称は、それまでは流通しておらず、中浜万次郎という呼び方が一般的であった。井伏はジョン万次郎という呼び名を、アメリカ船で航海中にアメリカ人らによってつけられた綽名「ジョンマン」からとったらしい。それをもとにジョン万次郎と呼んだわけだが、この小説の出版後は、もっぱらそのジョン万次郎が広く普及するようになった。
小説は前段で万次郎ら五人の漂流と異国での暮らしぶりを描き、後段で日本帰還後の万次郎の公的な活動について描いている。その描写の仕方は、事実をして語らしめるといった具合に客観的なものであり、装飾的な表現は少ない。
万次郎が漂流することになった船に乗り込んだのは、十五歳の正月五日のことである。旧暦天保12年1月5日のことである。新暦では1841年1月27日になる。15歳は馬齢であり、満年齢では14歳を目前にした13歳である。要するにまだ子供である。同船者は、漁師の伝蔵(38歳)、その弟重助(25歳)、伝蔵の息子五右衛門(15歳)、同村の漁師寅右衛門(27歳)であった。五人は船を出した後すぐに嵐に襲われ、海上を漂流する羽目になった。漂流後、小笠原近海の無人島に漂着し、そこで数か月間暮らしたのち、アメリカの捕鯨船に救出された。その捕鯨船の船長は非常に人間味のある人物で、かれのおかげで一同はおのれの未来を見出すことができるのだ。もっとも伝蔵の弟重助は病気で死んでしまうのだが。ほかの四人は、何らかの形で自分の未来を迎えることができた。もっとも小説が触れるのは、万次郎のその後の活躍だけだ。
捕鯨船はハワイに立ち寄る。そこで伝蔵以下の四人は日本への帰国の機会を待ちながら暮らすことになるが、万次郎は船長のホィットフィールドに見込まれてマサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベッドフォードにいく。この港はメルヴィルの小説「白鯨」の舞台にもなっている。当時アメリカの捕鯨は、灯油の原料確保のために行われていた。だから、鯨をとると、油脂だけをとりだして、肉の大部分は海に捨ててしまうのである。
万次郎は、教育の機会も与えられ、順調に成長していく。もっとも現地の学校に通ったわけではなく、教養のある大人から英語や生きていくうえで必要な基礎的知識を身に着けた程度だった。20歳になったころ、万次郎はアレンという男が所有する捕鯨船に乗った。捕鯨の技量を買われたのである。その航海の途中、日本の奥州沖で漁をする日本の漁船団(20隻ほど)と邂逅する。しかし日本へ帰国することはできず、船はホノルルに立ち寄った。そこで万次郎は、伝蔵らと再会する。伝蔵らは、万次郎と別れてから七年のあいだに身に降りかかった自分らの運命について語った。
死んだ重助をのぞく四人のうち、寅右衛門をのぞく三人(万次郎と伝蔵親子)が、ロロンデ号という捕鯨船に乗って日本帰国を企てた。ロロンデ号は、松前の諸島にさしかかる。松前というのは、北海道のことのようである。そこに列島があるといっているから、おそらく千島のことであろう。その中の一つに近づいた。万次郎らはぜひその島に上陸したいと言ったが、船長は許さなかった。無人島に置き去りにするわけにはいかないというのだ。それを伝蔵は、船長の姦計と疑い、万次郎もそう思ったが、のちにホイットフィールドから、船長の判断は妥当なものだったと言われた。
万次郎が伝蔵父子とともに再び船に乗り、琉球へ上陸したのは1851年正月のことである。漂流してから丁度十年が経過していた。彼らは上海行きのアメリカの商船に便乗し、沖縄付近を通過した際に、小舟を繰り出し、沖縄の南端マブニ村に上陸したのだった。マブニ村は、沖縄戦の際に、アメリカ軍に追われた住民が、追い詰められて海に飛び込んだところである。そこでかれらは、とりあえず薩摩藩士の尋問を受けた後、薩摩に送られ、そこで尋問を重ねて受けた後、長崎へ送られた。長崎では、異国から来たというので、踏み絵をさせられた。伝蔵の息子五右衛門はキリスト教に帰依していたが、何食わぬ顔でキリスト像を彫った銅板を踏んだ。
長崎から故郷の土佐に送られてからが、万次郎の後半の人生である。万次郎は、英語を話し、またアメリカの事情にも通じているというので、土佐藩や幕府から重宝された。万次郎は幕府に対して、捕鯨の振興を進言し、捕鯨御用の役職を得たはいいが、幕府は次第に多用を究めるようになり、捕鯨に力をいれることはなかった。万次郎後半の最大の仕事は、咸臨丸に乗ってアメリカに行ったことだった。咸臨丸は、日米和親条約の締結を目的とした派遣団を乗せたもので、軍艦奉行木村摂津、船長勝麟太郎、そのほか福沢諭吉や万次郎など総計90名を乗せていた。木村は終始穏やかな態度をとり、勝は船のなかで伸びて終始寝ていたという。小生も小笠原へ向かう船のなかで伸びて寝ていたので、勝の気持ちはわかる。
アメリカ人に対する万次郎の態度は、堂々としたものであった。この小説は、当時の日本人がアメリカ人に対してへつらうことなく、対等に接したと強調している。その一方、アメリカ人に対しても好意的な書き方をしている。中には日本人を侮蔑するようなアメリカ人もいたが、そういうやからには万次郎は決然として対応したと書いている。他方で、南方の原住民については、土人というなど差別的な書き方をしている。これは万次郎に土人といわせているのではなく、作者のナレーションとして土人という言葉を使っているので、井伏の偏見が現われた部分だろう。この小説を書いたのは昭和12年のことで、対中戦争が本格化したばかりだ。だから、アジアに対しては優越感をもつとともに、アメリカに対しては敵意が本格化していなかった。そんな時代の空気をこの小説は感じさせる。
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