器官なき身体 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む

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「器官なき身体」という奇妙な言葉は作家のアントナン・アルトーが使った言葉だ。アルトーは分裂症を病んでおり、自身の分裂症的な体験をこの言葉であらわした。通常の医学的な説明では、分裂症は自我の統一性が破壊される病気である。だから分裂症者は、確固とした自我の自覚をもてず、外界と内界の区別ができない。自我と対象とが区別できないために、主体性の感覚をもてない。そういう事態は、普通の言葉では病気というほかはないが、アルトーはそれに積極的な意義を与えた。かれにとって器官なき身体とは、さまざまな器官に分節化される以前のただの肉のかたまりとしての身体をイメージしていた。その肉の塊として生きるというのが、アルトーにとって望ましい生き方だった。

そのアルトーの器官なき身体という概念をドゥルーズはすでに「意味の論理学」の中でとりあげていた。その折には、アントナン・アルトーという作家の、西洋伝統思想へのアンチテーゼとしての可能性を強調する文脈のなかで「器官なき身体」に言及していたのだったが、この概念についての詳細な説明はしていなかった。その説明を詳細に展開したのは、ガタリとの共著「アンチ・オイディプス」においてである。それをさらに発展させた形で展開したのが、(成功しているかどうかは別として)「千のプラトー」における議論である。

「アンチ・オイディプス」の中では、器官なき身体は有機体としての身体に対立するものと定義される。有機体としての身体は、もろもろの器官からなる。それぞれの器官が有機的に結合することで全体としての人間が成立する。そのような人間像に対立するのが器官なき身体である。ドゥルーズらはアルトーの次のような言葉を引用する。「この身体は身体だ/この身体ただ一つが存在するのだ/いかなる器官もいりはしない/この身体は決して有機体なのではない/有機体は身体の敵なのだ」。そのようなものとしての器官なき身体は、アルトーが「自分がいかなる形態(手に触れられるような形や体)をとることもなく、またいかなる形象(眼に見えるような姿や形)をなすこともなしに存在していたその時に」発見したものだった。死の本能がそのこの身体の名前だとドゥルーズらは言っている、「この死には、モデルがないわけではない。じじつ、死の充実身体は、自らは動かずして欲望を動かす<不動の動者>であり、このために欲望はこのことをも<つまり、死をも>また欲望することになるのである」(「アンチ・オイディプス」(市倉宏祐訳)。

要するに器官なき身体とは、欲望そのものとしての身体ということになる。その欲望を抑圧するものが、欲望する諸機械としての器官なのである。その対立を隠蔽するのが精神分析の役割だというのが「アンチ・オイディプス」の主張であるが、ここではそれに深入りせずに、「千のプラトー」における器官なき身体の取り扱いに注視したい。

「千のプラトー」の第六のプラトー「1947年11月28日―いかにして器官なき身体を獲得するか」が、タイトル通り器官なき身体を主題的に論じた章である。1947年11月28日という日付は、アルトーが器官に対して宣戦布告し、器官なき身体の獲得を目指した時点をさすようだ。この章は、アルトーにしたがって、いかに器官なき身体を獲得するかというテーマを集中的に思索したものである。したがってこの章での器官なき身体とは、獲得されるべき目標である。器官なき身体という概念自体は、ほかのイメージをも含んでいるが、ここでは獲得すべき目標という位置づけが強調される。

ドゥーズらは、器官なき身体(フランス語でCorps sans Organes)をCsOと略記したうえで、「CsOとは、あらゆるものを取り払ってしまった後に、まだ残っているもののことだ。そして我々が取り払ってしまうのは、まさにこの幻想、つまり意味性と主体化のことなのだ」(宇野ほか訳)と言っている。わかりづらい言い方だが、取り払われるべきものは、口とか肛門とか性器とかいった諸々の器官である。そうした器官には意味性とか主体化といったものが付着している。口には口唇期コンプレックスが、肛門には肛門期コンプレックスが、また性器には去勢コンプレックスが付着しているといった具合だ。そうしたコンプレックスで人を脅かすのが精神分析のやり方だ。精神分析は、「立ち止まれ、君の自我を再発見せよ」と叫ぶ。つまり患者に、意味性と主体化を押し付けるわけだ。それに対してアルトーは、「もっと遠くへ行こう。われわれはまだCsOを見つけていない。われわれの自我を解体していない」と答える。器官なき身体は、精神分析とは真逆に、意味性とか主体化といったものを徹底的に敵視するのである。

こういわれても、CsOについての明確なイメージが結ばれるわけではないと、大方の読者は感じるのではないか。だいたいこの言葉の創造者アルトーは、分裂症の患者なのであり、その分裂症者の抱いているイメージをそのまま押し付けられても、戸惑う読者のほうが多いのではないか。この言葉によって、読者がイメージできるのは、西洋の伝統的な思考枠組みにそれが真正面から対決しているといったことくらいなものであろう。この言葉自体は、否定態のものであるから、そこから何か体系的な思想を引き出すわけにはいかないのかもしれない。そこでドゥルーズらは、比喩でお茶を濁そうとする。比喩と言うのは、CsOをスピノザの「エチカ」にたとえることである。

かれらは言う。「結局、CsOに関する偉大な書物は、「エチカ」ではないだろうか。属性attributとはCsOのタイプ、あるいは種類であり、実体にして力、生産的な母体としての強度ゼロである。様態modeとは、生起するすべての事柄、つまり波と振動、移動、閾と勾配、一定の実体的なタイプのもとで、ある母体から生み出される強度である」。こんな具合にかれらはCsOをスピノザの「エチカ」によって代弁させようとするのだが、その「エチカ」がなぜアルトーのCsOで代替されるのか、その論理的な必然性が、いまひとつわからない。せいぜいわかることは、CsOというものが、精神分析的なあらゆる言辞を拒否するということくらいだ。






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