正法眼蔵第五十四は「洗浄」の巻。洗浄とは文字通り心身を洗い清めること。それを道元は不染汚と言っている。この巻は次のような言葉で始まるのである。「佛祖の護持しきたれる修證あり、いはゆる不染汚なり」。心身を洗い浄めるというテーマは、「洗面」でも説かれていた。洗面では顔や手を洗うことや歯を磨いて口腔内を清潔に保つことが強調されていたが、この「洗浄」の巻では、手足の爪を切ることと大小便の後始末が強調されている。大小便をしたあとに、その部分を清潔にすることや厠(便所)における礼儀などがことこまかく指示される。その説くところは微細をきわめ、大小便に対する道元の異常なこだわりを感じさせる。
道元が大小便にこだわるのは、糞まみれ小便垂らしでは、心身の清浄はかなわず、心身清浄でなければ仏道は成就できないという確信があるからだろう。仏道は心身の汚れを極端にきらう。心身の汚れのなかでも、大小便の不始末がもっとも罪が大きいのである。
洗浄は、とりあえずは身を浄めるということであるが、実はそれだけのことではない。仏法を保任することでもある。それを道元は次のように言う。「水をもて身をきよむるにあらず。佛法によりて佛法を保任するにこの儀あり。これを洗淨と稱ず」。
道元はまず手足十本の指の爪を切ることをすすめたあと、大小便の洗浄について説く。その部分がこの巻の大部分を占めるが、それは「洗大小便おこたらしむることなかれ」という言葉で始まる。大小便の始末が洗浄の肝というのである。
大小便の始末は、当該部分を紙でふいたり、こねて丸めた土でこすったり、水ですすいだりとかなり詳細に説明される。紙には文字が書いてあってはならぬと強調しているが、これはおそらく経典の紙を使ってはならぬという意味であろう。水で肛門などをすすぐときには、左手を用いよという。東南アジアの小乗仏圏では、やはり肛門は左手ですすぐことになっているようである。
樹下や路地で暮らしているときには、その辺の草むらで用を足し、川の水で洗ってもよいが、寺院で生活する場合には、専用のトイレを設けねばならぬ。そのトイレのことを道元は東司といっている。寺院の敷地の東側に建てるということか(東が都合悪ければ、南あるいは西でもよいといっている)。その東司における立ち居振る舞いについて道元は噛んで含めるように詳細に説明する。それを読んでいると、南方熊楠の肛門の清潔に関する説が想起される。
東司における振る舞い方は些細なことではない。「かくのごとくする、みなこれ淨佛國土なり、莊嚴佛國なり。審細にすべし、倉卒にすべからず。いそぎをはりてかへりなばやと、おもひいとなむことなかれ。ひそかに東司上不説佛法の道理を思量すべし」。
大小便の清潔を怠るものは、仏道修行の資格はない。道元は禅苑清規の次の言葉を引用して、そのことを強調する。「若し洗淨せずは、僧牀に坐し及び三寶を禮すること得ざれ。また人の禮拜を受くること得ざれ」。また、三千威儀經の次の言葉を引用する。「若し大小便を洗はざれば、突吉羅罪を得。また僧の淨坐具上に坐し、及び三寶を禮すること得ざれ。設禮するとも福徳無からん」。
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