「千のプラトー」の第七のプラトーは「零年―顔貌性」と題される。ゼロ年という年次はキリスト生誕の年だ。ここでの顔貌性についての議論はだからキリストと深い関係があるように思える。じっさい、キリストの顔が、顔貌性の議論を象徴しているようなのである。キリストの顔とともに顔貌性が生産された。キリストの顔が生まれるまでは、顔貌性というようなものはなかった。キリスト以前にも人間は存在していたわけで、それら古代の人間たちにも顔と呼ぶべきものはあったはずなのだが、それは真の意味での顔ではないとドゥルーズらはいう。キリスト以前の人間たちにも、頭の一部としての顔はついていたが、それは顔貌性を伴わない、出来そこないの顔である。真の顔ではない。真の顔はキリストが代表するような顔なのである。キリストの顔は白人の顔を代表している。白人の顔こそが人類の基準となるべき顔なのであり、その他の人種の顔は、多かれ少なかれ出来そこないの顔である。そうした人種差別的なニュアンスが、ここで議論の対象となっている顔貌性という言葉には込められている。
そんなわけだから、顔貌性という言葉は否定的な意味合いを持たされている。ドゥルーズらはなによりも多様性を重んじるのだが、顔貌性はそうした多様性を排除して画一性をのさばらせる。だから、顔貌性はかれらにとって批判の対象となるのだ。
ところでその顔貌性というものをかれらは、具体的にはどのようにイメージしているのか。顔貌という言葉は常識的には、顔の表情というような意味だろう。表情は心=精神が外面に表現されたものだととりあえずいえる。精神の内容が、表情として表現されるという対応関係が指摘できる。精神と顔貌は、内容・表現というドゥルーズらにおなじみの二項対立の一種というわけだ。そのような意味合いで顔貌性をとらえている個所が指摘できる。第五のプラトーの中では、顔貌性とは、「シニフィアンの、形式的で純粋な冗長性」の特別な表現の実質だと言っている。精神状態を形式的で純粋な冗長性の形で表現したものが顔貌性だというのである。だから顔貌性には冗長性がつきまとっている。
また、このプラトーの冒頭は、「意味性と主体化という二つの軸が存在するのをわれわれは見た」という言葉で始まっている。意味性と主体化は、表現と内容、シニフィアンとシニフィエの対立と対応している。顔貌はこれら二項対立の一方を代表するということになる。しかしそんな風に単純化したのでは、顔貌性のもつ複雑な意味合いはわからなくなってしまう。そこでドゥルーズらは、顔をホワイトウォールーブラックホールのシステムとして解釈しなおそうとする。ホワイトウォールとは顔のつるつるした皮膚面をさし、ブラック不ホールとは黒い穴のような眼玉をさす。その組み合わせがどのように顔貌性を形成していくのか。
顔貌性はキリストの生誕とともにあらわれ、以後キリスト教文化の中軸となる役割を担った、とかれらは考える。キリスト教文化とは、白人の文化である。白人こそが真の人間の顔をもった生き物なのだ。ほかの人種は、白人との相対的な関係において位置付けられる。白人に近い人種もあれば、人間よりむしろ野生動物に近い人種もある。そうした野生動物に近い人種は、頭はもっていても顔を持っているとはいえない。顔は特別な生産物なのだ。
顔貌性の担い手である白人の顔は、キリスト教文化を刻印している。キリスト教文化はギリシャ文化とともに西洋文化を構成する要素である。西洋文化の批判者を自認するドゥルーズらは、したがってキリスト教が生産した顔貌性に批判的であらざるをえない。
顔にキリスト教文化を刻印するのは権力のアレンジメントだと彼らは言う。顔とは一つの政治なのだ。権力は人間の一様化をめざす、それは人間が本来持っている多様性を破壊しようとする。「いかなる多様性、いかなるリゾーム的特徴も許容されないのだ。子供は走り、遊び、踊り、絵を描くのであって、言語活動やエクリチュールに注意を向けることなどできない。つまり決して良き主体ではありえない。要するに新しい記号系は、原始的社会の持っていた多様体のすべてを徹底的に破壊しなければならないのだ」(宇野ほか訳)。
ドゥルーズらのように西洋思想の伝統と戦おうとするものは、顔を解体するという任務を帯びるだろう。だが、「顔を解体するのが大変な難問であるのは、それが単なるチックの話や、好事家や審美家の冒険ではないからだ・・・そこで分裂分析のプログラム、スローガンはこういうものになる。きみたちのブラックホール、きみたちのホワイトウォールを探せ。それを認識し、きみたちの顔を認識せよ。そうしない限り顔は解体されないだろう。そうしないかぎりきみたちの逃走線は成立しないだろう」。
以上ドゥルーズらの顔貌性をめぐる議論は、かれらの西洋思想批判の一環としての意義をもっている。かれらはキリストの顔に、白人の帝国主義的攻撃性を認め、それを解体して人間すべてがそなえている多様性を回復したいと思うのである。かれらは言うのだ、「『原始人』は、最も人間的で最も美しい精神的な頭部をもちうるが、顔を持つことはなく、そんなものを必要とさえしない」と。かれらにとって白人の顔は、否定性の象徴のようなものなのだ。
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