正法眼蔵第五十五は「十方」の巻。十方とはもともと方角をあらわすことばで、東西南北の四方と東南、西南、東北、西北の四維に上下を加えた十の方角をさす。十の方角とはあらゆる方角という意味である。そのあらゆる方角に衆生が住んでいる。その衆生が住むあらゆる方角を十方世界とか尽十方界という。要するに十方とはすべての世界のことをいう。そのすべての世界はまた仏国土である、というのが、道元のこの巻のテーマである。
短い巻で、十方についての釈迦牟尼の言葉及び長沙景岑禪師と玄沙院宗一大師の言葉を取り上げて、十方が即仏国土である旨が語られる。
冒頭には次のような言葉が置かれる。「拳頭一隻、只箇十方なり。赤心一片、玲瓏十方なり。骨裏の髓を敲出し了れり」。握りこぶし一つがただこれ十方であり、一片の赤心が玲瓏たる十方である。我が骨髄を絞り出してあますところがない、ということである。これだけでははなはだ難解で意味を解しかねる。だが、これが釈迦の言葉だと思えば、なんとなくわかってくる。釈迦はさとりを得た人なので、その釈迦の姿(握りこぶしや赤心)が仏国土(すなわちさとりの世界)をあらわしているという意味にとれる。
ついで釈迦牟尼が大衆に示した言葉が二つ紹介される。まず「十方佛土中、唯有一乘法」。これはすべての世界にただ一つの真理が貫いてあるという意味だろう。その真理とは、さとりの境地をあらわす。次の言葉は、「唯だ我れのみ是の相を知る、十方佛も亦た然り」。わたしだけがその相を知っている、十方の仏もまたそうである、ということだが、この相とはなにか。空中に(杖で)円を描く(打円相)ようなものだと説明しているが、要するに真理のことなのであろう。
長沙景岑禪師の言葉は六つ取り上げている。一つ目は「盡十方界、是沙門壹隻眼」。十方世界のことごとくが沙門の一つの目だというのだが、ここでいう沙門とは瞿曇すなわち釈迦牟尼のことである。二つ目は「盡十方界、是沙門家常語」。十方世界のことごとくが沙門の家常の語だという。家常のこととは世の常のことだと断っている。釈迦がもちいる世の常の言葉が十法世界を表現しているということだろう。三つ目は「盡十方界、沙門全身」。これは天井天下唯我独尊という釈迦の言葉を解説したものだ。四つ目は「盡十方界、是自己光明」。十方世界のことごとくは自己の光明であるという。自己とは現実の自分のことではなく、父母未生已前の鼻孔だという。わかりにくいところだ。五つ目は「盡十方界、在自己光明裏」。十方世界のことごとくが自己の光明裏にあるという。目の皮一枚を自己光明といい、それを開いて見える世界が自己光明裏ということか。六つ目は「盡十方界、無一人不自己」。十方世界のことごとくが自己でないものはない、つまりすべての存在は自己の産物だとする考えは、道元の唯心論的な傾向を感じさせる。
玄沙院宗一大師からは、「盡十方界、是一顆明珠」が取り上げられる。これは非常に有名な言葉で、道元は正法眼蔵の一巻をこの言葉の解釈にあてている。この言葉の意味は宇宙全体を一つの明珠にたとえるもの。さとりを得たものは、宇宙を一つの明らかな玉として手中につかむというような意味であろう。
以上、この巻で道元が説いているのは、すべての存在は仏のさとりの境地が現出したもの、つまり仏国土だということであろう。
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