「千のプラトー」の第10プラトーは「1730年―強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること」という奇妙な題がついている。動物になることというのは、人間が動物になることをいい、メタフォルフォーゼの伝説を想起させてわかりやすい。だが、強度になることとはどういうことか、また知覚しえぬものになるとはどういうことか。しかもこのプラトーは、さまざまな者らの思い出を紹介するという形式をとっている。ある観客の思い出から始まり、ある博物学者の思い出、あるベルグソン主義者の思い出、ある魔術師の思い出、ある<此性>の思い出、あるプラン作成者の思い出、ある分子の思い出、秘密の思い出といった具合だ。スピノザ主義者やベルグソン主義者のように明らかに人間と思われるものの思い出と並んで、<此性>の思い出とか分子の思い出とか、わけのわからぬものの思い出がある。これら思い出の紹介に続いて、思い出と生成変化、音楽への生成変化についての考察があり、思い出とは生成変化のことだと語られる。実に奇妙なプラトーである。
タイトルや構成の奇妙さのわりには、書かれていることは比較的マシである。プラトー全体を通じて、生成変化について説いているのである。存在を同一性にもとづいてではなく、差異において見るというのがドゥルーズの一貫した姿勢であった。その差異を代表するのが生成変化である。生成変化とは、あるものをその静的な相において見るのではなく、動的な変化する相において見ることにかかわる。なにものかを、その不動の相において見るのではなく、生成変化する相において見る。それが望ましい哲学のあり方だというのが、ドゥルーズの変わらぬ考えであり、また、ガタリの考えでもある。
生成変化のうちもっともわかりやすいのは動物への生成変化だ。このプラトーも、動物への生成変化の話から始めている。つまり動物になること、から始めている。人間が動物になるのである。ねずみになったり狼になったり、である。人間と動物との間に断絶があると解釈してはならない。人間と動物との間を生きることが問題なのである。生成変化して自分とは違ったなにものかになるのではなく、生成変化するプロセス自体が重要なのだ。動物への生成変化のほか、女性への生成変化や子供への生成変化もある。なぜ男性ではなく、女性や子供そして動物なのか。それは男性が女性や子供や動物になるからである。男性はマジョリティを形成している。マジョリティとして世界を動かしている。支配者とまではいわないが、世界の基準を作るもの、それが男性である。その男性が女性や子供や動物になるというのは、マジョリティがマイノリティになるということである。生成変化はかならずマジョリティからマイノリティへの生成変化であり、その逆はない。マイノリティが目指されるというのは、要するに世界の多様性を尊重するということである。ドゥルーズらの生成変化論は、世界の多様性に関する議論といえるのだ。
かれらは動物性を吸血鬼で代表させている。タイトルにある年次1730年とは、吸血鬼の話でもちきりだった年だ。人々は、吸血鬼を人間の中の動物性が表現されたものととらえた。人間はだれでも吸血鬼=ドラキュラになれるのだ。ドラキュラは狼男でもある。
人間(男性)はただ動物になるばかりではない。動物の中の変則者になるべきだ。あらゆる動物は変則者を抱えている。だが、変則者とは何か。かれらはそれを一個の現象だと言っている。ただしボーダーの現象である。ボーダーとは、中間のことである。中間を生きることが、生成変化の極意であった。生成変化とはだから、なにものかの間のボーダーを生きるということなのである。
動物への生成変化と並んで、知覚しえぬものへの生成変化が語られる。ここでいう知覚しえぬものとは何か。それをかれらは分子状のものだといっている。分子状のものは、モル状のものとの対立においてすでに語られていた。モル状のものは言葉の定義からして知覚しうるものである。それに対して分子状のものは知覚しえない。その知覚しえないものになるとはどういうことか。われわれは、動物への生成変化においてボーダーという中間地帯を生きる。その中間地他の先にあるのが分子状のものだ。動物への生成変化を論じている場では、中間地帯の先には動物そのものがいるように思えるが、かれらはそうではなく、分子状のものがあるというのである。その分子状なものになることが、動物に生成変化することより、大事なことだというのがかれらの考えである。分子という概念は、ドゥルーズ=ガタリにとって、差異の根拠になるものなのである。
動物になることと知覚しえぬものになることとは、かなり密接な関係にある。では強度になるとはどういうことか。強度という概念をかれらはスピノザから受け継いだ。スピノザは外延と内包の関係を経度と緯度の関係に置き換えた。経度が一定の関係における外延的部分から成り立っているのに対して、緯度は一定の受容能力のもとにおける内包的=強度的部分からなる。強度という言葉を使うのは、緯度によってあらわされる身体の情念の全体は数量化できないからである。外延は数量化できるが、内包は数量化できない。それは強度によってあらわされるのである。
ねずみと人間はまるで違うように見えるが、存在という一つの意味を共有している、とかれらは言う。同じ存在でありながら、人間とねずみが区別されるのは、存在の強度の違いに基づくのか。そう問いたくなるが、どうもそうでもないようである。
「スピノザ主義とは、哲学者が子供に<なる>ことにほかならない」ともかれらは言う。子供は情動に敏感である。緯度は情動の度合いをあらわす言葉だった。ニーチェは馬が打たれるのを見て、「お馬が死んじゃう」といって涙を流したというが、それはかれの情動のなすところである。ニーチェは子供になったのだ。
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