遍参 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第五十七は「遍参」の巻。遍参とは、善智識を求めてあまねく訪ねまわること。道元はこの巻を次の言葉「佛の大道は、究竟參徹なり。足下無絲去なり。足下雲生なり」で始めているが、これは、仏祖の大道は徹底的に善智識を訪ねて参学することにつきる、その行脚の姿は、足下に一糸なくして去り、足下に雲を生じる趣ありといった意味である。つまり、遍参についての伝統的な捉え方を確認しているのである。

とはいっても単にうろつきまわるだけで終わってしまっては意味がない。それにはさとりが伴わねばならない。それを道元は次のように表現する。「しかもかくのごとくなりといへども、花開世界起なり、吾常於此切なり。このゆゑに甜瓜徹蔕甜なり、苦瓠連根苦なり。甜甜徹蔕甜なり。かくのごとく參學しきたれり」。これは、そうではあるが、花開いて世界起こるというように、さとりを得て初めて成仏するのであり、そのことを常にこころがけねばならない。甘い瓜はへたまで甘いし、苦い瓢は根まで苦い、砂糖ダイコンはへたまで甘い。そのように思い知らねばならない。

つまり、遍参をして、そのさきにさとりを得るのでなければならない。さとりを伴わない遍参は意味がないと言っているのである。

以上が冒頭の部分で説いていることで、以下はそれを具体的な例を挙げて敷衍したものである。まず、玄沙山宗一大師とその師雪峰のやりとり。雪峰が玄沙に向かって、頭陀袋を用意したのに、何故行脚に行かないのかと聞いたところ、玄沙は、「達磨不來東土、二祖不往西天」と答えた。これは、達磨は中国に来なかったし、慧可はインドに行かなかったという意味だ。慧可はたしかにインドへ行ったことはないが、達磨は実際に中国にやってきたわけで、あきらかに事実に反した言い方である。そうした言い方をするのは、遍参を、単に善智識を訪ねまわるという表面的な意味にとらえるのは間違っているということであろう。

ついで、南嶽大慧禪師とその師曹谿古佛のやりとり。南嶽大慧禪師が初めて曹谿古佛を訪ねたとき、曹谿古佛は、こんなものがどうして来たのじゃ、と問うた。南嶽は、この泥団子のような言葉を、八年かけて思いめぐらせた。そして、和尚のおっしゃった意味がわかりましたと報告した。和尚が、どのように分かったのかと聞くと、物象をあげて説明することはできません、と答えた。和尚が、おぬしにはまだ修行が必要と考えるかと問うと、南嶽は、修行はいらないわけではないが、もっと純粋でなければなりません、と答えた。それを聞いた和尚は、わしもおぬしも様々な仏祖もそのようでなければならぬ、と言った。そこで南嶽は、さらに八年にわたって思いめぐらせた。

このあと、遍参は単に訪ねまわるという行為のことではなく、さとりに向けて心の修行をすることだという趣旨のことが述べられ、最後に、「遍參はただ祗管打坐、身心脱落なり。而今の去那邊去、來遮裏來、その間隙あらざるがごとくなる、渾體遍參なり、大道の渾體なり」と説く。遍參は、あちこち訪ねまわることではなく、只管打坐して心身脱落することだというのである。






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