「千のプラトー」の第十一のプラトーは「1837年―リトルネロについて」と題する。リトルネロとは、音楽用語で、同じ主題を何度も繰り返すことをいう。ベートーベンの第五で、あの衝撃的で短い主題が何度も繰り返されるのがその例だ。だが、このプラトーの真の意図は、リトルネロではなく領土化である。なぜリトルネロが領土化と結びつくのか。それは小鳥が介在することによってである。小鳥の鳴き声は、同じ旋律を繰り返すことからリトルネロといってよい。小鳥はそのリトルネロのような鳴き声を、テリトリーの宣言として用いる。なわばりの主張なのだ。なわばりは領土といってよいから、小鳥においてリトルネロは領土と強く結びつくわけである。このことをかれらは次のように表現する。「リトルネロはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ。たとえば鳥の歌。鳥は歌を歌うことによって自分のテリトリーを示す・・・リトルネロは、本質的に、<生まれ故郷>や<生来のもの」と関係しているのだ」(宇野ほか訳)。
ドゥルーズらは、「アンチ・オイディプス」においても、領土化、脱領土化、再領土化といった概念を駆使していた。その折にはこれらの言葉にあまり厳密な定義は施さなかった。領土化を確立した主体の特性、脱領土化を主体からの脱却、再領土化を主体の再取り込みといったような意味合いで使っていた。それらをもっと厳密に定義しようというのが、このプラトーの目論見のようだが、かならずしもその目論見が貫徹されているようにも見えない。
領土化とか、脱領土化とか、再領土化といった言葉の意味を正確に理解するためには、領土という言葉の意味が正確にわかっていなければならない。さきほどテリトリーと言い換えたが、そう言っただけでは、領土という言葉の意味が確定するわけではない。領土という言葉の意味をかれらはとりあえず次のように定義する。「領土とは、まず同一種に属する二個体間の臨界的距離のことであり、その距離を標示することである。<私>のものとは、まず<私>が持つ距離のことだ。<私>には距離しかないのだ、<私>は人に触れてもらいたくないし、他人が<私>の領土に入ってくるなら、苦情を述べ、立札を立てる。臨界的距離は表現の質量に由来する一つの関係なのだ。間近にせまったカオスの力を遠ざけるために距離を取らなければならないのだ」。ここでは二つの関係性が論じられている。まず、同一種の他の個体との関係、そして環境との関係。環境は個体にとってはカオスとして迫ってくる可能性が強い。それをコントロールして環境を秩序あるものに作り替えるためには、個体は領土をもたねばならない。その領土を踏まえながら世界のなかで自立した存在になることができる。
領土化とは、他の個体との関係や環境との関係を自己の領土においてアレンジする力のことをいう。それを領土的アレンジメントという。領土的アレンジメントを通じて我々人間は、環境の諸機能を労働の形で組織化したり、カオスの諸力を結びつけて儀式と宗教に、そして大地の諸力に転化させたりする。要するに領土化とは、個体が主体性をもって存在する条件をなすわけである。それは同一の種の中での、つまり他の人間との関係性における、主体性の確立を意味するとともに、環境をコントロールし、カオスに秩序をもたらすものである。
これに対して脱領土化は、領土の外へと出ていく働きをいう。脱領土化は領土化そのものに備わった傾向である。「なぜなら、多くの場合、アレンジされ、領土化した機能は、それ自体であらたなアレンジメントを形成するに足るだけの独立性を獲得しているからだ。こうして成立したアレンジメントがある程度まで脱領土化し、さらに脱領土化の傾向を強めていくからだ。脱領土化の方向に進むために、実際に領土を離れる必要はない。しかし、つい今しがたまで領土的アレンジメント内に形成された機能だったものが、今度は別のアレンジメントを構成する要素に、また別のアレンジメントへの橋渡しを行う移行の要素に変化する」。
脱領土化はあらたなアレンジメントを形成し、その新たなアレンジメントがそれ自体として領土化を行う。それをかれらは再領土化するという。再領土化というのは、脱領土化によって当初の領土化が消滅するわけではないからである。当初の領土化を基準にすれば、脱領土化を経て回復された領土化は再領土化ということになる。
以上を踏まえたうえで、領土化、脱領土化、再領土化の関係について、かれらは次のような総括を行っている。「われわれは、地層化した環境から始めて、領土化したアレンジメントに到達した。同時に、カオスの諸力が環境によって振り分けられ、コード化され、コード変換を受けたところから始めて、大地の諸力がアレンジメントの中に集められるところまでたどりついた。次に領土的アレンジメントから相互的アレンジメントへと進み、脱領土化の線に沿ったアレンジメントの解放に到達した。それと同時に、集められた大地の諸力から、脱領土化した、あるいはむしろ脱領土化する宇宙の諸力にたどりついた。この最後の運動は、大地の<様相>であることをやめ、宇宙への<抜け道>になっている」。
領土化、脱領土化、再領土化の関係は、あくまでも進歩発展の関係ではない。この三者は、それぞれ独立した働きをもつ。その独立した働きとしてのそれぞれのアレンジメントを、ドゥルーズらは芸術運動の歴史と関連付ける。かれらが取り上げているのは、古典主義、ロマン主義、近代芸術である。古典主義は、かれらによれば、ゲーテによって代表されるが、それはカオスに秩序をもたらそうとする領土化の意思を代表している。ロマン主義は、領土化的なアレンジメントからの脱領土化の傾向を代表している。近代はニーチェによって代表されるが、それが再領土かなのかどうか、疑義があるかもしれない。肝心なのは、それらの傾向に進化とか優劣の関係を持ち込まないことだ。
ところで、タイトルに含まれている1837年という年次は何を意味しているのか。読み飛ばしたようで、いまひとつはっきりしない。かれらはリトルネロをグラスハーモニカにたとえているから、あるいはそれと関係があるのかもしれない。
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