眼晴 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第五十八は「眼晴」の巻。眼晴は、もともとは目玉という意味だが、そこから転じて要点を見抜くとか真実を見極めるといった意味を持つ。真実を見極めるとは、道元の場合さとりを得るとほぼ同義である。眼晴は、さとりを得るためには真実を見極める力が必要だという意味である。

道元は、巻の冒頭で眼晴ということばを定義している。曰く、「億千萬劫の參學を拈來して團欒せしむるは、八萬四千の眼睛なり」。例によって難解な言い方だが、その意味は、ありとあらゆる修行を取り上げて、それを一つにまとめたものが、眼晴だということだろう。八万四千の晴眼というのは、修行者それぞれの悟りに即した真理ということだと思う。

これだけだとわかりにくいので、道元は師の如浄の言葉を持ち出して、解釈を加える。「秋風清く、秋月明らかなり。大地山河露眼睛なり。瑞巖點瞎して重ねて相見す。棒喝交馳して衲僧を驗す」。大地山河に眼晴あらわる、あるいは大地山河眼晴をあらわす、というのは、秋風が清く吹き、秋月が明るいという大地山河のさまを見て、そこに真理の所在を見ることが肝要だと言いたいのであろう。自然にさとりのきっかけを見るというのは、禅者のよくやることだが、道元もここでそれと同じことをしているように思える。

続いて道元は、洞山悟本大師とその師雲巖の、眼晴をめぐるやりとりを紹介し、晴眼について詳しく評釈する。まず、洞山が雲巖に向かって、「和尚さんによって眼晴を得たいと思います」と言うと、雲巖は、「お前さんの眼晴は誰かにやってしまったのかい」と言った。洞山が「私には眼晴はありません」と答えると、「いやあるにはある、だがどこにつけているのか」と雲巖は言う。洞山が黙っていると、「眼晴を得たいと思うその気持ちが眼晴なのじゃ」と言った。このやりとりを踏まえて道元は、眼晴とは眼晴を乞うことだとする。要するに、真理を得たいというその気持ちが眼晴だということであろう。

道元はさらに、師如浄の眼晴にかかわる言葉をいくつか(六つ)取り上げて、眼晴という言葉の意味を掘り下げていく。まず、第一に、「達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す」。達磨の目玉を抉り出し、それを団子に丸めて人を打つ、というのであるが、人を打つとは、人を作るという意味である。達磨の目玉でもって人を作るといっているわけである。

第二に、「六年落草す野狐精、渾身を跳出する是れ葛藤。眼睛を打失して覓むる處無し、人を誑いて剛に道ふ明星に悟ると」。野狐精は仏のこと。その仏が眼晴を打失するというのは、眼晴を有効に用いたということか。そうだとすれば、もはや求めるものはないということになる。

第三に、「瞿曇眼睛を打失する時、雪裡の梅花只だ一枝。而今到處に荊棘を成す、却つて笑ふ春風の繚亂として吹くことを」。この打失は、目がひょいと見えなくなること、あるいは目をつぶること。すると雪裡の梅花が一枝見えるというのである。いまのところその梅は茨だらけだが、そのうち春風が繚乱と吹くだろう。そうすれば梅も咲くだろう。

第四に、「霖霪たる大雨、豁達たる大晴。蝦啼き、蚯蚓鳴く。古佛曾て過去せず、金剛の眼睛を發揮す。咄。葛藤葛藤」。自然は推移すれど、古仏は過ぎ去らず、金剛のように堅固な眼晴を発揮する。

第五に、「日南長く至り、眼睛裡に放光し、鼻孔裏に出氣す」。日は南のほうに傾いたが、眼晴は光を放ち、鼻の穴は息をしている。

第六に、「今朝二月初一なり、拂子眼睛凸出す。明なること鏡に似たり、黒きこと漆の如し。驀然として跳し、乾坤を呑却す。一色衲の門下、なほ是れ撞牆撞壁す。畢竟如何。を盡して拈却して笑ふこと呵呵たり、一任す春風の沒奈何なるに」。拂子の眼睛が飛び出すというが、拂子とは仏具のこと。仏具で修行者を意味しているのか。その修行者の目玉が飛び出すと、鏡のように明るく、漆のように黒いということだろう。要するに修行がうまくいっているということだ。それに対して、自分の弟子どもは、なお牆や壁に突き当たっている有様だ。しかしどうすることもできぬではないか、春風にまかせるほかはない。

以上、眼晴という言葉の意味を、道元は修行の要点として捉えていたように思える。






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