検察審査会と聞いて小生がまず思い出すのは、政治家小沢一郎に対する強制捜査だ。これは検察が起訴しなかったものについて、検察審査会が二度にわたり審査した結果強制起訴に至ったものだが、その背後に極めて不健全な政治的意図を感じたものだ。一方で検察審査会は、伊藤詩織さんへの準強姦事件については、一貫して不起訴の立場を貫いた。そんなこともあって小生は、検察審査会にはあまりいい印象を持っていなかった。そんな検察審査会を、欠点・利点含めて多面的に検証しようとする試みがある。デヴィッド・T・ジョンソンらによる研究「検察審査会―日本の刑事司法を変えるか」(岩波新書)と題するものである。
これは、ジョンソンのほか二人の日本人研究者(平山真理・福来寛)が加わったもので、検察審査会の歴史とか司法制度に及ぼした影響とか今後の課題につて幅広い見地から研究している。かれらによれば、日本の検察審査会制度は世界でも珍しいのだそうだ。アメリカはじめ先進国の司法制度は、権力による起訴権の乱用に歯止めをかけることに力を注いでいる。それに対して日本の検察審議会は、権力に起訴を促すという役目を果たしている。というもの、日本の検察審査会の役割は、検察が起訴しなかったものについて、その是非について判断し、場合によっては起訴を迫ることにあるからだ。これは見方によっては、権力の補強といえなくもない。
日本の検察審査会の特異性は、その成立過程に原因があるとかれらはいう。占領当局は日本の民主化の一環として、刑事司法の民主化をかかげ、起訴のプロセスにアメリカの大陪審制度を導入しようとした。これは起訴手続きに市民を参加させようとするものである。これに対して日本の法曹界は拒絶反応を起こし、双者の妥協の産物として「検察審査会」制度が1948年に生まれた。これは検察の不起訴処分についてその是非を審査し、場合によっては起訴すべきという判断を行うというものである。それについて検察に従う義務はなく、事実ほとんどの場合無視された。だが、2009年に改正検察審査会法が施工され、二度目の審査に基づく起訴相当の判断に強制力が伴うこととなった。その結果はしかし、2009年から12年間に強制起訴がなされたのはわずか10件にとどまり、表向きには、その効果は限定的と思われないでもない。しかしかれらによれば、強制起訴の影響は非常に大きなものであって、検察はつねに検察審査会を意識しながら処分せざるを得なくなった。その点で、検察の権力は一定程度制約されるようになったわけであり、そのことは日本の司法制度の民主化にとってよいことだ、とかれらは考えている。
12年間に強制起訴された10件について、かれらなりに分析したうえで、いつくかの教訓を引き出している。その教訓が日本の刑事司法の今後の民主化に役立つだろうとかれらは考えるのである。この10件の中には、暴行や強姦などの刑事事件が2件含まれているが、大部分は企業による犯罪事案、かれらがホワイトカラー犯罪と呼ぶものである。JR福知山線脱線事故や東電福島原発事故などを含むそれらのホワイトカラー犯罪について、検察審査会が強制起訴を行っても、裁判ではみな無罪になった。これは検察審査会の責任ではなく、裁判のあり方にかかわるものだが、ホワイトカラー犯罪について、日本の刑事司法が非常に弱腰であることを物語っているとかれらはいう。司法が弱腰(消極的あるいは否定的)になるのは、強姦などの性犯罪についても同様である。これについては、検察審査会も批判を免れない。かれらは伊藤詩織さん準強姦事件を例に挙げて、検察審査会が一貫して彼女の訴えに否定的な態度をとったことを批判している。「この事件の結末は、被害者を裏切り、加害者を好き放題にさせ、そして刑事司法が依拠する信頼を腐食してしまう」というのである。
日本の刑事司法が性犯罪に弱腰な態度をとっていることについては、著者の一人ジョンソンが別途疑問を呈している。かれは雑誌によせた小論(日本でレイプは犯罪なのか 「世界」2024年10月号)のなかで、日本にはレイプを容認する文化があるのではないかという趣旨のことを言っている。その指摘は、小生も一人の日本人として受け止めねばなるまい。
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