遊牧論あるいは戦争機械 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む

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「千のプラトー」の第十二のプラトーは「1227年―遊牧論あるいは戦争機械」と題する。テーマは遊牧民、戦争機械、国家についてである。戦争は国家の専権事項だというのが常識的な理解だが、このプラトーはそうした理解をくつがえし、戦争は国家の外から国家にやってくると説く。戦争機械はもともとは、国家ではなく遊牧民のものなのだ。遊牧民は国家をもたない。国家は領土と領民からなっているが、遊牧民は領土をもたないからだ。領土を持たない民は領民とはいえない。その二重の意味で、遊牧民は国家をもたない。その遊牧民の首長であり、戦争機械の権化ともいうべきチンギス・ハーンが死んだ年が1227年である。なぜその年をタイトルに含ませたのか。

ドゥルーズらはまず、国家と戦争機械との関係から説き起こす。かれらは、「戦争機械は、国家装置とは、別の種類、別の性質、別の起源に属する」(宇野ほか訳)と言う。さらに進んで、「戦争機械は国家に対立している」というクラストルの言葉を引用しながら、戦争と国家との密接な関係を否定する。戦争と国家とは対立関係にあるだけではない。より積極的な意味で、「国家は戦争に反対する、そして国家を不可能にする・・・だからといって、戦争は一つの自然状態であると結論すべきではない。反対に、戦争は一つの社会状態が、国家を退け妨げる様相であると考えるべきである」。

では戦争機械はどのようにして生じるのか。「戦争機械は遊牧民の発明である」とうのが彼らの答えである。遊牧民は、その本性からして戦争好きなのである。遊牧民の本質的な特性は、領土的な空間をもたず、たえず移動することだ。その移動する空間は、砂漠や草原のような平滑空間だ。平滑空間とは、条理化されていない空間という意味である。国家は条理化された空間を基盤にしている。遊牧民が自己の生存基盤である平滑空間を増やすためには、条理化された空間、つまり国家としての空間を侵略せねばならない。その目的のために、遊牧民は高度の武器製造技術を発明した。冶金技術はまず遊牧民の中から生まれたのである。だがそれはせいぜい、小銃レベルのものにとどまる。大砲レベルの大規模な武器は、国家権力のもとではじめて組織化されるのである。

このように、遊牧民と国家とは互いにあいいれない対立関係にある。遊牧民は、たえず国家を侵略し、平滑空間の拡大をめざす、チンギス・ハーンはそうした衝動をもっとも見事に達成した人物である。かれは広大な領土を征服し、遊牧民の生活基盤たる平滑空間を世界的な規模に拡大した。それに対して「国家の基本的任務の一つは、支配の及ぶ限り空間を条理化すること、すなわち条理空間のために平滑空間を利用することである」。こうした国家の意思が支配的になると、そこで初めて国家による戦争機械の取り込みという現象がおこる。もともと遊牧民の発明であり、遊牧民によって発動されていた戦争機械を、国家もまた追求するようになる。というのが、ドゥルーズらの歴史的な見立てである。

ところで、「われわれが今までのところ知っている人間組織の主要な類型には三種類ある」とかれらはいう。血統的、領土的、数的組織である。血統的組織はいわゆる原始社会の組織である。領土的組織は国家装置である。数的組織は遊牧民の組織である。遊牧民が、構成員を数として捉えるのは、構成員を戦力として見るからだ。遊牧民はそもそも戦争を前提にした組織であり、戦争では戦士の数がものをいうのである。

「人間を数として扱うことが、伐採すべき樹木として扱ったり、切り取って成形すべき幾何学的形象として扱うことより、より悪いとは必ずしもいえない」とかれらは言う。要は文化の問題なのだ。国家装置は労働によって組織化されるのに対して、遊牧民の組織は自由な活動を重視する。労働は道具を使用し、自由な活動は武器を駆使する。「一般に機械状かつ集団的アレンジメントが技術的要素に優先するということは、道具についても、武器についても、例外なくあてはまる。武器と道具はアレンジメントの帰結であり、単なる帰結にすぎない」。つまり、道具は国家装置のアレンジメントの帰結であり、武器は遊牧民のアレンジメントの帰結だというわけである。

戦争機械は遊牧民の発明したものであるが、やがて国家によって所有されるようになる。するとその性質に根本的な変化がおこる。遊牧民の発明した戦争機械は、戦争を唯一の目的としたわけではない。遊牧民の第一の目的は、平滑空間をひろげることであるが、その目的が、戦争以外の方法で達成できる場合には、戦争という手段に訴える必要はない。ところが、国家が戦争機械を所有するようになると、戦争がそれ自体国家の目的になる傾向を指摘できる。「国家が戦争機械を所有するとき、戦争機械は言うまでもなく性質と機能を変化させる。国家に所有された戦争機械は遊牧民とあらゆる国家破壊者に対抗することになる。あるいは、ある国家が他の国家を破壊しようとし、他の国家を服従させようとするかぎりにおいて、国家間の関係を表現することになる・・・戦争機械がこうして国家に所有されるとき、戦争機械は戦争を直接的かつ第一の目標とし、『分析的』な目標とする傾向をもつ」。

「分析的」というのは、言葉の定義のなかにすでに含まれている、という意味だ。戦争機械はそもそも戦争を絶対的な要素とはしていなかったはずなのだが、国家によって所有されるようになると、絶対的かつ不可欠な要素に変化するわけである。それは、戦争機械の本来の姿からすると逸脱なのであるが、国家と結びつくことで、絶対的かつ不可欠の要素に変化してしまうのである。われわれが、戦争機械と国家とを不可分のものとして結びつけるのは、このふたつが「分析的」に結びついてしまった結果なのである。そんなわけで、地球上には国家間の戦争が絶えないのである。






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