「千のプラトー」の第十二のプラトーは「BC7000年―捕獲装置」と題する。テーマは、直前のプラトーに続き、国家についてである。タイトルにある「捕獲装置」とは、国家の機能の一つ。ドゥルーズらは、国家の政治的な至上権力を、デュメジルに従って、二つの極にわける。「政治的な至上権力は二つの極をもつ。捕獲、絆、結び目、網を操る魔術師としての恐るべき皇帝という極と、条約、協定、契約といった手続きを行う法律家、司祭としての王という極・・・戦争の機能は、政治的な至高権力の外部に存在し政治的至上権を構成する二つの極のいずれにも所属せずそれらから区別される」(宇野ほか訳)。
戦争と国家とのかかわりについてはとりあえず脇に置き、まず、国家の機能とか、その発生とか、国家の存続を支える条件といったものを考察しよう。国家は、ここでは政治的至上権と同一視されている。その政治的至上権に二つの極がある。一つは国家を成り立たせている事実上の条件、もうひとつは法律的な側面である。捕獲は、絆や結び目と並んで国家が成り立つための事実上の条件である。なぜなら、国家は、直前のプラトーで指摘したとおり、領土と領民からなるからだ。領民は領土に組み込まれた民衆のことだが、その民衆は捕獲装置を通じて調達される。近代国家はいざしらず、国家のもっとも原始的なものは、民衆を捕獲することで形成された、とドゥルーズらは考えているようである。
かれらは、歴史上最初に現れた国家を原国家と呼ぶ。人間の文明は原国家を舞台に始まるのである。原国家には、国家に必要なあらゆる要素が含まれている。その国家が人間を捕獲するのであって、ルソーがいうような、人間が契約を通じて国家を作るわけではない。タイトルに含まれている「BC7000年」は、旧石器時代のことだろう。かれらは、旧石器時代にはすでに国家があらわれていたと考える。国家の発生について、歴史学者たちはもっと後の時代を想定しているが、かれらにとっては、そもそも人間らしいあり方は国家を前提にしているのであり、旧石器時代にはすでに人間らしさが確立されていたと考える限り、国家の発生を旧石器時代にまで遡らさねばならない。
原国家は、血縁による土地支配というコードをすでに持つ原始共同体の上に樹立されるのであるが、国家が行うのは原始共同体のコードに対し上位コードを設置することだと、彼らはマルクスを意識しながら語っている。原国家は古代専制国家である。それがあらゆる国家の起源である。人間のあらゆる文化は、その原国家のなかで花開いた。「国家を前提にするのはエクリチュールだけではなく、言葉も言語も言語活動も、すべて国家を前提にしている。かれらはマルクスとは違い、国家の廃絶など全く意味をなさないと考える、国家は人間の文化の前提なのだから、国家を廃絶したら、人間性もまた廃絶されるほかないと考える。
国家による人間の捕獲は、課税というかたちをとる。国家は領民から税を徴収し、それで得られた富によって存続する。税は経済活動を前提とした二義的なものだと考えられがちだが、実は税こそが人間の経済活動の前提なのだ。税は貨幣という形に必然的になっていく。貨幣は税制度の産物なのだ。交換を中心にした経済活動は、貨幣を通じてなされるが、その貨幣は税制の産物なのである。だから、経済活動は国家を前提とする。経済関係のシステムが国家を生むのではなく、国家が経済活動の枠組みを作るのである。
こんな具合に、ドゥルーズらの社会理論は、国家を非常に重視する。国家なくしては経済活動は生まれようがなかったし、また、経済活動が行われる限り国家は存続する、というのがかれらの基本的な考え方である。
だが、資本主義は国家と対立関係にあるのではないか、という見方もある。資本主義は世界市場を一つにまとめようとする衝動をもっている。それをグローバリゼーションへの衝動という。たしかに、資本主義は国家なしですませる経済秩序を発達させていると、彼らも認める。しかし、「資本主義とともに国家が廃絶されるわけではなく、国家は形態を変え、新しい意味を担うようになる。それは国家を超える世界的公理系の実現モデルにほかならない。だが超えるとは、国家なしですませるということではない」。そのように彼らはいうのだが、そういうことで、国家を従来の民族国家の枠を超えた、インターナショナルな権力と言っているわけであろう。形容矛盾をあえて犯せば、グローバルな地球単位の国家権力ということになろう。
国家に関連してかれらは、機械状隷属と社会的服従を区別している。隷属は人間が国家によって機械的に支配され、機械の部品にさせられることである。それに対して服従は、主体としての人間の自発的な行為という外観を呈する。「この時もはや人間は機械の構成物ではなく、労働者や使用者となり、機械によって利用されるのではなく、機械に(自発的に)服従するのである」。資本主義システムは、こうした服従の上に成り立っている。
現代史を彩る全体主義国家とか社会民主義国家といったものは、いずれも資本主義システムの産物である。両者は同じ生産様式の上に成り立っているのだから、同型性の関係にあるといえる。だが、「二つが異質であることに変わりはない」ともかれらはいう。ファシズムと社会民主主義を一緒くたにするわけにはいかない、というのだろうか。ファシズムは、戦争を手段として使ったのではなく、戦争が自己目的化したシステムである。ファシズムにおいて、「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのである」。
いくらグローバル化しても国家はなくならないだろうし、また、人種間の対立もなくならないだろう。いまは白人が他の人種をおさえてメジャーな役割を果たしている。かれらは白人の人口上の割合が将来減少し、自分らがマイノリティになるのではないかと危惧しているが、マジョリティとかマイノリティといったものは、単純な数の問題ではない。白人は将来にわたってマジョリティであり続けるだろう。その白人の利益にかなうシステムを維持しようとするかぎり、世界に不正義の種はつきない。不正義の種をつみ、正義を実現するためには、マイノリティが世界のシステムを作り上げる必要がある。
このプラトーは、次のような言葉で結ばれている。「こうしてマイノリティにとっての問題はむしろ、資本主義を倒し、社会主義を再定義し、世界規模の戦争機械に対して別の手段によって反撃できる戦争機械を作り出すこととなる」。ここでマイノリティと呼ばれている者が、抑圧される側の人間であることは、言うまでもない。
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