古市の重松の勤め先の工場には、大勢の被災者が集まっていて、それらが次々と死んだ。最初に死んだのは50歳の外務部員で、工場への出勤途上被爆したのだった。なんとか自力で工場まで来たが、翌日の昼頃死んだ。工場ではとりあえず棺桶を作り、死体の処理のために必要な手続きをとろうとしたが、市役所の機能は停止していて、火葬場で火葬できる見込みもない。そこで工場の独断で火葬することにした。警察では、非常事態を理由に、野辺で火葬することを認めていた。
しかし、ただ焼けばいいというものではない。せめてお経を読んで聞かせたい。だが、手ごろな坊さんがいない。そこで工場長は、重松にお経を習ったうえで、それを棺桶の前で読めと命令した。重松は面食らったが、工場長の強い意向に従って、お経を習うことにした。工場長は、「どこかお寺に行って火葬するときに坊主の読む経文をノートしてこいと言った。そればかりでなく、広島には真宗の人が多いから,真宗の流儀で読む経文を筆記してこいと注文をつけた」。
重松は近所の真宗寺をたずね、老僧に向かって、葬式のときに読む経文を伝授してもらいたいと頼んだ。老僧は、三帰戒、開経偈、讃仏偈、阿弥陀経及び白骨の御文章をすすめてくれた。そして、「お葬式のときには、安芸門徒は『三帰戒』『開経偈』『讃仏偈』という順に読んで参ります。次に流転三界の『阿弥陀経』でございますが、このお経を読む間に参集者がお焼香をいたします。次に『白骨の御文章』でございますが、このときは仏の方へ向かないで参集者の方へ向いて風誦いたします」と言った。
「『三帰戒』は『白骨依仏、当願衆生、体解大道、発無上意・・・』という書き出しで、『開経偈』は『無上甚深微妙法、百千万億雖遭奉・・・』という冒頭である。『白骨の御文章』は、筆記していて心にしみこんでくるような美しい和文である」。
始めは棺桶の前で読経していたが、棺桶の材料がなくなると、死体に向かって読経するようになった。そもそも読経は棺桶に向かってなすものである。死体に面と向かって読経するのはやりづらい。しかし、実際はノートに向かって読むのだから、なんとかやりおおせた。中にはお礼の御布施をくれるものがある。そんなことよしてくれというと、受け取ってもらわんと、仏さんが浮かばれません、と真顔で言う者がいる。
付近の河原は、両岸ともいたるところ火葬の煙があがっている。盛んに燃えているものもあり、燃え残ってくすぶっているのもある。焼かれた骨は穴を掘って埋めた。穴を覗くと髑髏が見える。「髑髏のことを、昔の人はノザラシと別称した」と重松は云う。昔とは、鳥野辺の昔のことだろう。鳥野辺など平安時代の墓所は、いわゆる風葬が行われており、白骨化した死体はいつまでも野ざらしにされていたものだ。
社員以外の部外者の葬儀に際しては、その身元や被災・死亡の状況をなるべく詳細に記録した。後日遺族に引き継ぐときの資料としてである。
重松は死者の葬式ばかりしていたわけではない。毎日多忙に歩き回っていた。歩き回っていると多くの死体と出会う。ピカドンこのかた、人の死骸を見すぎるほど見たにもかかわらず、死骸というものがかれには怖いのだ。所用で外出の帰り、古市の近くの浅瀬を渡ろうとしたところ、死にかけている男と、すでに息絶えた二体の屍に遭遇した。重松は足音を殺して通り過ぎようとしたが、死骸が怖くて、おもわず「白骨の御文章」の一節を唱えた。
「・・・我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人やもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば、あしたには紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常のまなこたちまちにとぢ、ひとつのいき長くたえぬれば・・・」
この小説は、虹についての俚諺あるいは迷信に触れるところで終わっている。白い虹が見えればそれは凶事の予兆、五彩の虹が見えれば吉事の予兆というものである。重松の心境としては、今の自分自身の力ではなにもできない。しかし手をこまねいているだけでは気が済まない。そんなときには、せめて奇跡を期待するよりほかない。重松はお経を読みながら多くの人を送ってきた。お経を読むことで、自分の心も救われたし、無論人々にも感謝された。五彩の虹を期待するのも、同じような心境ではないか。お経が心を慰めてくれるように、五彩の虹への期待もなにがしか心を慰めてくれる。それゆえ重松はこう叫ぶのだ。「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」。
コメントする