国土利用計画法の思い出 落日贅言

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教育庁で学校健康担当を二年余りやったあと、財務局用地部評価室指導担当課長に横転した。財務局用地部評価室というのは、都が当事者となる不動産等の取引価格を決定する部署である。道路用地の買収価格とか、ヘリコプターの購入価格、あるいは都有財産の貸し付けにかかる賃料の設定といったことを行う。これは都の固有事務であるが、それにあわせて国土利用計画法にもとづく事務を担当していた。国土利用計画法の本則には、一定規模以上の土地の取引の届け出制を定めている。取引価格が市場の実勢と比較して、あまりに多額である場合は、それについて勧告する権限が都道府県知事に与えられている。また臨時措置として、一定の区域(監視区域という)について、あらゆる土地取引の届け出制を定める規定があった。地価の異常な上昇を制御することを目的としたものである。これは区市町村の事務に位置付けられていたが、都はその事務を指導する立場にあった。要するに、評価室というのは、都の固有事務としての不動産価格の決定と国土利用計画法に基づく事務とを所管していたわけだ。その事務のうち、固有事務については評価担当課長が、国土法の本則としての届け出にかかる事務については国土法担当副参事(これは教育文化財団で社会教育施設青年の家の所長をしていた男で、小生とは結構仲がよかった)が、区市町村の指導にかかる事務については指導担当課長が所管していた。小生が任命されたのは、指導担当課長である。

指導担当課長の具体的な所掌事務は、監視区域に指定した区市町村の指導及び地価の調査である。地価の調査は、国が行う調査(地価公示)と都道府県が行う調査からなっている。都道府県の行う地価調査結果は、毎年9月に公表される。この調査は東京都鑑定士協会に委託しておこなっていた。小生が指導担当課長に就任したときは、その調査の大詰めを迎えたというような時期にあたっていた。鑑定士協会の幹部からは、二年前の平成3年から下落含みだった地価が、今年は大幅な下落に転じるだろう、というような話を聞かされた。地価が大幅に下落すれば、地価上昇に歯止めをかけることを目的とする国土法の運用にも大きな影響が及ぶ。具体的には、監視区域の設定を見直すよう迫られる可能性がある。そんなわけで、初めて迎える地価調査の公表にはかなりな緊張感がともなった。

地価調査の動向とか国土法の運用見直しについて語る前に、異動にともなって体験した二・三の事柄について言及したい。財務局はいわゆる官房系の局であり、都の役人の間では人気の的であった。そこへ異動するのは栄転と受けとられていたので、多くの人が祝福してくれた。オール都庁の仕事ができますねと言う者もあった。また、都の指定金融機関の某銀行からは祝福の電報が届いた。ずいぶん大げさな話だと感じたものだ。財務局の当時の庶務課長(幹部人事を担当する)は清掃局の先輩であった。その先輩が昼食に誘ってくれ、小生を財務局に迎えた経緯など話してくれた。その話を聞いた小生は、都の人事は人間関係に左右されることが大きいと感じたものだ。

地価調査の結果は、戦後一貫して上昇傾向だった地価が、平成3年に下落含みとなり、今年は大幅な下落に転じたことを示した。平成5年のことである。この年以降、日本の地価は、住宅地も商業地も本格的な下落傾向をたどっていった。だからこの年の地価調査結果は日本の一つの転換点をあらわすものといえた。その影響は多方面に及んだが、その当時の小生には、その全容を知りうるだけの材料はなかった。とにかく、地価が大幅下落の趨勢を示したことは、自分の仕事にも大きく影響するだろうとは考えた。一番最初に思い浮かんだのは、地価上昇対策の臨時措置としての監視区域制度の見直しを迫られるだろうということだった。監視区域制度そのものは財務局の所管ではなく、都市計画局の所管だった。そこの土地調整課長というのが、地価下落に敏感に反応した。今年の地価下落がそのまま監視区域の見直しにつながるのかどうか、そこを判断するのがむつかしい仕事だった。

地価調査の結果は、知事への報告を経て、特別に設けた記者会見の場で説明した。結構大きな反応を呼び起こした。あるテレビ局からは、単独インタビューを申し込まれた。記者たちの関心の対象は、監視区域の見直しがあるかどうかということだった。これは日本経済に大きな影響を及ぼすので、対処を間違えると大事になる。そつなく対処せねばならない。土地調整課長は、都市計画局としての基本的なスタンスを伝えてきた。都市計画局では、総務部長が音頭をとって、監視区域制度の見直しについて議論を始めたというのである。所管部長ではなく、総務部長が音頭をとるというのは、局としての最重要課題という位置づけになっていることを示している。

どうやら都市計画局では、この際思い切って監視区域制度を撤廃しようと考えているらしかった。その考えを貫くには、今後も地価の下落が続くという見通しがなければならなかった。その見通しを、都市計画局では、都の地価調査担当である小生に示してもらいたそうだった。都の地価調査担当のお墨付きがあれば、監視区域制度の見直しに拍車がかかるというわけである。そこで小生は、鑑定士協会の幹部に、今後の地価の見通しについて尋ねた。今後も下落傾向が続くだろうというのが大方の見通しだった。

都市計画局の総務部長、土地調整課長に小生を加えた三人が、監視区域の見直しに関する実質的な判断者となった。総務部長は財務局の出身者で、なかなか気さくな人柄であった。かれの判断の底には、日本経済のためにはなるべく公的な介入を控えるべきだという考えがあって、今回はいい機会だから、監視区域を解除しようという立場に傾いていた。何度も緊密なやりとりを行い、監視区域解除の方針を決定したのは、その年の暮れ近くのことであった。

その前に、小笠原へ出張する機会があった。小笠原だけは地価の上昇傾向に歯止めがかかっていないので、引き続き監視区域に指定してほしい、という要望が小笠原の村長から出されていた。そこで村の意向を直接聞くという名目で小笠原に出張したのであった。出張メンバーは財務側から小生以下三人、都市計画側から二人。小生が団長をつとめた。土地調整課長は仕事の都合で同行できなかった。当時は、小笠原まで船で28時間もかかった。船酔いに弱い小生は、一切の飲食を受け入れず、床にへたばったまま島までいった。陸に降りたときには、フラフラの状態であった。

早速村長と面会して、村の意向を聞き、その意向を尊重したいと答えた。村長は総務課長(都からの出向者)を同行させ、大事な人たちだから手あつくおもてなししなさいと言ってくれた。そこで我々は、総務課長から熱いもてなしを受けた次第である。

監視区域解除の方針を、都市計画・財務両局で確認したのは11月の半ばである。それを踏まえて11月25日に知事へ報告し、判断を仰いだ。ところがその日のうちには結論が出なかった。知事がなかなか慎重なのである。だが二度目に設定した知事レクチャーの席で、監視区域の解除が決定された。知事の決裁を得たことで、国土法監視区域の解除に向けた準備作業を始めた。監視区域の実務は区市町村が担っているので、まず区市町村への周知徹底を行った。都市計画局次長、土地調整課長、財務局用地部長、評価室指導担当課長がチームを組んで、特別区長会、市町村長会に赴いて、趣旨の説明と協力依頼を行った。首長の中には、監視区域の解除に慎重な意見や、疑念を呈する者もいたが、都の方針は揺るがなかった。

準備が整ったところで、特別の記者会見を設定し、そこで都民向けの説明をした。マスメディアの関心は大きく、200名を超える記者が集まった。こんなわけで、小生は指導担当課長を一年やる間に、自分のポストを廃止する仕事をしたことになる。なにしろその一年の間、小生はほとんど監視区域を解除する仕事に専念したのである。この制度は、売り手と買い手の両方の利害にかかわるので、都議会議員がいわゆる口利きをする格好の材料となっていた。一番困るのは、売り手買い手双方にそれぞれ議員がついて、それが正反対の要求をしてくることである。売り手側に立った議員は価格をもっと上げろと言うし、買い手側に立った議員はもっと下げろと言ってくる。その調整を手際よくやるのが、役人の腕の見せどころなのである。





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