多和田葉子の小説「星に仄めかされて」は「地球にちりばめられて」の続編である。前編の最後で勢ぞろいした六人の人物たちのその後の行動が描かれている。前編では、かれらは皆でストックホルムへ旅行するような気配で終わっていたと思うのだが、かれらが集まるのはコペンハーゲンである。Susanooが失語症だと思い込んだクヌートらが、かれをコペンハーゲンの病院に入院させたのだ。そこでみながそれぞれSusanooを見舞うために病院に集まる。ところがSusanooは、失語症なのではなく、意識的にしゃべらないだけだということがわかる。Susanooは饒舌と言ってよいほどよくしゃべり、しかも攻撃的だった。そんなSusanooを中心にこの編は展開していくのである。
前編は、六人の語りで構成されていたが、この編にはそれに三人が加わる。コペンハーゲンの病院の医師ベルマー、ベルマーの助手のようなことをしている青年ムンン、そしてクヌートの母ニールセン夫人である。ニールセン夫人は前編でも出てきてそれなりの役割を果たしていたが、この編では語り手の一人に昇格している。彼女は恋する女として自分を紹介する。恋の相手はベルマー医師だ。
前編では、地球の環境危機が大きなテーマだった。Hirukoは環境危機の最大の犠牲者だった。母国が消えてしまった可能性が高いのだ。彼女は二度と母国語を話すチャンスをつかめないかもしれない。もしもSusanooが母国出身の人だったら、かれと母国語で話せるかもしれない。しかしSusanooには母国語へのこだわりはない。かえって、そんなものには意義を認めないのだ。
この編では、環境危機の問題はあまり取り上げられない。かわって前景化するのは引っ越しである。性の引っ越し、言語の引っ越し、役割の引っ越しである。性の引っ越しはトランスジェンダーという形で、インド人のアカッシュによって行われる。アカッシュは生物学的には男性だが女性としてのアイデンティティを有している。外形上も、赤いサリーを着たり、女性として振る舞ったりしている。じっさいかれは、マッチョな感じではなく、繊細な感じなのだ。もっとも小説の中では、表立ってそのことを感じさせる部分はあまりない。むしろニュートラルな雰囲気を漂わせている。
言語の引っ越しはHirukoによって実行される。彼女は母国を失ったことで、もはや母国語で話す機会はないだろうと感じている。彼女はヨーロッパにいて、主にスカンジナビアを拠点にしている。そこでスカンジナビアのどこでも通じる言葉を発明してそれをパンスカと呼んでいる。彼女は移民のようなものではあるが、どこか特定の国にいつくことは考えておらず、スカンジナビア諸国を自由に行き来したいと考えている。そこでスカンジナビアのどこでも通じる言葉を発明したというわけだ。その言葉には、地域の匂いのようなものがない。したがってきわめて事務的に響く。Hirukoのパンスカ言葉は、今はやりのAIのしゃべり方を連想させる。そのHirukoがシックスというのが、ベルマーにはセックスと聞こえてしまう。年中セックスのことを考えているからだ。もっともラテン語では、6をセックスという。英語のシックスはそれが訛ったものだ。
役割(あるいは性格)の引っ越しは、ベルマーとナヌークの間で行われる。ベルマーは青年の若々しさを、ナヌークは社会的な地位の高さを望み、それぞれ互いに自分の属性を取り換え合うのである。それは全人格ではなく、表面的な属性の一部にすぎないから、たいしたインパクトを持たないし、またしっくりと身についているわけでもない。
多和田が引っ越しにこだわるのは、自分自身引っ越しばかりやってきたからだろう。彼女は日本からドイツへと活動舞台を引っ越ししたのだし、ドイツにこだわることなく、ヨーロッパのあちこちを引っ越しして歩き回っている。
この編は病院が主な舞台とあって、医療用語が結構出てくる。多和田は臓器移植には批判的なようで、臓器移植の反道徳的な側面について指摘している。脳死という言葉があるが、それは臓器移植のために発明された言葉ではないか、というような意味のことを多和田は語り手に言わせている(アカッシュが第三者の意見として紹介)。「脳死という言葉は、内臓移植の分野でしか使われない用語だという話を聞いたことがある。移植したい側から見ると、死んでいなければ法的にみて内臓を取り出せないから、脳死という概念が必要になる」。しかし「もし自分が事故で死にかけているがまだ痛みを感じる状態で、内臓を切り取られる可能性が一パーセントでもあったらどうする?」
そう語らしたうえで、死体をむやみに切り裂くことの反道徳性について言及する。「昔から死体を侮辱することは大きな罪だった。死体だからどうでもいいという考え方は歴史上、存在しない」。そんな考え方が現われたのは、臓器移植が医学的に容認されるようになってからだ。
ムンクの絵「桟橋の少女たち」についての分析が出てくるのは、HirukoがSusanooとの間でやりとりをしているときのことだ。それが出てくることに大した必然性は見当たらないのだが、三人の後姿を見せた少女たちが水面に見入っている姿が、なんとも情緒的だとHirukoは感じる。とりわけ、「こういう水鏡に映るとすべてが悲しく陰って見える」というのだ。なお、小説では言及されていないが、四人の少女のバージョンもある。そこでは、四人のうち一人が顔を見せている。
この小説の中で多和田は、日本語による言葉遊びを楽しんでいる。冒頭のムンンの語りの部分では、ラつき言葉が連発されるし、また擬声語・擬態語も多く使われる。勝手な語源解釈もある。「でまかせ」は、「出るにまかせること」だから、「勝手に出てくるものを邪魔しないで出るにまかせる。それもいいんじゃない?」といった具合だ。言葉遊びは、ハイデガーをはじめ西洋人も好きなところだろうから、小説に使いたくなるのは無理もない。だが、日本語での言葉遊びは、よほどうまく使わないと、他国人には面白くはないだろう。この小説には日本人でなければ味わうのが難しいような言葉遊びが多出する。
そんなこともあって、この小説はやや軽さを感じさせる。
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