発菩提心 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第六十三は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻はもう一つある。追加十二巻のうちの第四巻だ。岩波文庫の旧版では、本体第六十三は「発無上心」と題していた。それが「発菩提心」と変えられたのは、本文の趣旨を踏まえたからだろう。本文を読むと、「発無上心」とか「無上心」といった言葉は一切出てこず。もっぱら「発菩提心」という言葉が頻出するのである。

「発菩提心」と題する二つの巻は、増谷文雄によれば、同じ日(寛元二年二月十四日)同じ場所(越前吉田県吉峰精舎)において示衆されたという。現行の岩波文庫版では、本体のものはその日付だが、追加分のほうにはその日付は見えない。弟子の懐奘が書写した日付(建長七年四月九日)が記されているだけである。増谷が何をもとにして両者が同じ日に示衆されたと考えたか、よくはわからぬが、ありえないことではない。じっさい、両者はともに発菩提心について説いているので、内容的には非常に密接な関係にある。ただ語り方に相違がある。それについて増谷は、追加分のものは出家の僧を相手に説いたものであり、本体のものは在家のものを相手に説いたものだろうと推測している。たしかに、本体のものは、造寺造仏の功徳をもっぱら説いており、そこから、相手が大工など寺造営にかかわった職人たちであると推測することができる。

発菩提心とはなにか、道元は次のように説く。「おほよそ發菩提心の因縁、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔にせられて禮佛する、また發菩提心なり」。要するに、仏を供養することが菩提心であり、それをおのれのこととしてやりぬく決意が発菩提心と言っているのである。

菩提心といえば、普通の仏教の説明では、衆生の救済のために立ち上がるという意味になるが、ここでは仏のために供養することだと説かれている。供養の具体的なあり方は、造仏、造経が中心である。造仏、造経とここで道元が言っているのは、当時建設中の大仏寺(後に永平寺)の造営のことをイメージしているのであろう。その造営に従事している職人たちはしたがって、発菩提心を起こしているのである。そのように解釈すると、ここで道元が説いている相手が大仏寺造営に従事する人々だとする増谷の解釈に合理性を認めることができよう。

じっさい道元は続いて「しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり」と言い切っている。而今の造塔造佛等とは、今実施中の大仏寺の造営のことを言うと考えられる。それに従事することがすなわち発菩提心だと言うのである。

ところが小乗の愚人は、「造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず」という。これは心得違いというものである、と道元は批判する。釈迦の言葉「明星出現時、我與大地有情、同時成道」に評釈をくわえながら、道元は次のように念押しする。「ただ一莖草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古佛塔廟を建立する、これ發菩提心なるべし」。仏像を作り、塔廟を建設することこそ発菩提心と言うべきなのである。

最後に華厳経の一節を引用しながら、次のように述べている。「入於深山、思惟佛道は容易なるべし、造塔造佛は甚難なり・・・かくのごとくの發菩提心、つもりて佛祖現成するなり」。造塔造佛に努めればやがて成仏することができる、と言うのである。





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