2013年のアメリカ映画「華麗なるギャツビー(The Great Gatsby バズ・ラーマン監督)」は、スコット・フィッツジェラルドの同名の小説を映画化した作品。原作は20世紀アメリカ文学を代表する作品という評価が定着しており、村上春樹などはアメリカ文学の最高傑作とまで言っている。小生はかならずしもそうは思わない。俄か成金の失恋をテーマにした原作は、アメリカンドリームを感じさせる点ではアメリカ人好みではあるだろうが、そんなものに興味を感じない人間には、ただの失恋物語にしか見えない。「ウェルテル」のような若い男の失恋なら多少の色気も感じられるが、三十を越した俄か成金の失恋に共感するわけにはいかない。
映画は、原作の雰囲気に忠実だといえよう。原作ではニックという人物の目線から、ギャツビーという男の生き方をたどっているのだが、それがそのまま映画でも表現されている。ニックはギャツビーの崇拝者であり、ギャツビーに寄り添うような形でその生涯を振り返る。でもかれがなぜギャツビーの崇拝者になったか。それについては曖昧なままにしている。ギャツビーという男が発している独特の雰囲気にのまれたということか。映画では、レオナルド・デカプリオがギャツビーを演じており、かれ独特の雰囲気が、ギャツビーという男の魅力をひきたてている。
ニックによる回想録という形をとっているが、それは精神科の医師にすすめられて書いたものだ。ニックは心を病んでいることになっているのだ。かれが心を病んだのは、ギャツビーというかけがいのない友人を失ったことと関係があると映画は匂わせている。原作はそこまで書いていないから、これは映画作者の脚色だろうと思う。
友を失ったことに加えて、ギャツビーを取り巻いていた人間たち、とくにギャツビーが愛した女性が、ギャツビーの死をなんとも思わないことがニックの心にこたえた。しかしニックは、ギャツビーとのかかわりを回想録という形で再現することで、心のしこりが癒されるのを感じる。
映画の見どころは、ギャツビーの屋敷で毎夜繰り広げられるパーティーを描写した部分。こんな場面を見せられると、アメリカ白人社会の強烈なエネルギーに圧倒される。
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