正法眼蔵第六十四は「優雲華」の巻。優雲華とは、仏教の教えでは、三千年に一度咲くという非常に珍しい花のこと。その珍しい花に、仏の教えの珍しさをたとえた。だが、道元は別の考えかたをする。仏の教えは決して珍しいものではなく、つねに仏祖から仏祖へと伝えられていると説くのである。
道元はこの巻を、大梵天王聞仏決疑経の一句を引用することから始める。「靈鷲山百萬衆の前にして、世尊、優曇華を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉、破顔微笑せり」。釈迦が優雲華を手にとって目を瞬くと、摩訶迦葉が破顔微笑したという意味である。これを以て、優曇華は三千年に一度咲く非常に珍しい花であることを理由に、仏祖から仏祖への教えの伝達は非常にめずらしい出来事だとする説が生まれたのであるが、道元はそうは考えない。仏の教えの伝達は、多くの仏祖の間で行われてきた。それを道元は次のように言う。「七佛諸佛はおなじく拈華來なり」。七仏諸仏というのは、代々の仏祖をいう。達磨もその一人である。それら代々の諸仏の間にも、拈華すなわち優雲華を手に取って瞬目し、それに破顔微笑で応じるということが繰り返されてきた、と道元は言うのである。
道元はまた次のようにも言う。「おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり」。拈華のことは、釈迦以前にもあったし、釈迦以後にも行われた。それは仏祖から仏祖へとたえず繰り返し行われる、というのである。
それにしても優雲華とはどのような花か。釈迦は次のように言った。「譬へば優曇花の如し、一切皆愛樂す」。つまり優雲華はみなに愛楽される花である。みなとは一切の人々であり、人に限らず草木昆虫にいたるまで、おのずから光明を放つ存在のすべてをさす。
釈迦は優雲華を拈じて瞬目したというが、瞬目とはどのようなことか。ただ目を瞬くのではない。「瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換却せり。如來瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如來瞬目、すなはち拈華なり。優曇華のこころづからひらくるなり」。明星に眼睛を換却すとは、眼睛を明星と取り換えるということである。その時に摩訶迦葉は破顔微笑した。そのとたん迦葉の顔は拈華の顔になったと道元は言う。すなわち優雲華となったのである。
かように、優雲華は、仏祖が仏祖に伝える教えの神髄を象徴するものとして捉えられている。道元はまた、我有は附属なりと言っている。我有とは私が持っているものということであろう。それが附属だという。附属とは汝に与えるという意味である。我が持っているものを汝に与えよう、それが拈華の意味するところである。
道元は、「祖師西来、これ拈華」とも言っている。祖師すなわち達磨が中国にやってきたのも、拈華すなわち教えを授けるためである。
この巻はだいたいこのように読めるが、他の巻に比べて非常に難解といえよう。
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