中村祐子「あえかなる部屋」 内藤礼と光たち

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中村祐子の2015年の映画「あえかなる部屋 内藤礼と光たち」は、造形美術家内藤礼の創作を追うドキュメンタリー映画という触れ込みだが、中途半端な作品になっている。肝心の内藤礼が、自分の姿を撮らせようとしないし、また、途中で取材に非協力的になってしまうので、ドキュメンタリー映画としての制作継続が不可能になった。そこで、内藤とは関係のない人物を複数登場させて、それぞれの生き方を語らせるというやり方に切り替えた。そんなわけで、内藤礼についてのドキュメンタリー映画とは言えないものになっている。

なぜそんなことになってしまったのか。おそらく、中村のなかに、内藤についてどんな映画を作りたいかという確固とした方針がなかったためだと思われる。それを内藤に見透かされて、協力を得られなかったのではないか。普通の人間の神経なら、そこで映画の制作をあきらめるところだ。ところが中村は、内藤とは関係のない人間たちを登場させて、それらに自分の生き方を語らせる。どうしてそんなことをしたのか。それでは、内藤に対してあまりにも失礼であろう。

中村は、内藤その人を描きたかったというよりも、内藤をダシにして、自分のことを描きたかったのではないか。それなら、なにも内藤その人にこだわる必要はないのであって、内藤がだめなら他の人間で間に合わせることができる。じっさい、この映画は、途中からは内藤とは関係のないものに変化しているのだ。

他人をダシにして、自分の言い分をダラダラと述べるのは、印象批評といって、日本の批評家たちの悪い癖である。その癖を日本人に植え付けたのは小林秀雄である。小林の悪い影響によって、日本の批評のほとんどは読むに堪えない代物である。中村のこの映画も、その悪癖に陥っているように見える。

なお、「あえか」という言葉は、画面上でわざわざ意味に言及しているとおり、現代人には耳慣れない言葉である。画面上のアナウンスでは、「かよわい」とか「なよなよ」といった説明がなされている。国語辞書で調べると、源氏物語のなかに用例があるというから、古い言葉ではあったのだろう。






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