正法眼蔵第六十五は「如来全身」の巻。経巻こそが如来全身であって、それさえあれば仏のための供養はできる。なにもわざわざ仏舎利を集めて塔を建てるには及ばない。経巻こそが仏舎利よりも功徳がある。その経巻を塔に収めて護持すればよいと説く。仏舎利という因習的な権威に頼らず、経巻を護持することが肝要だと説いているように見える。その経巻がなにを指しているのかについては、具体的な言及はない。
まず、釈迦の次のような言葉が紹介される。「經卷所住の處には、皆應に七寶の塔を起て、極めて高廣嚴飾ならしむべし。須らく復舍利を安ずるべからず、所以は者何。此の中に已に如來の全身有り、此の塔は應に一切の華香瓔珞、蓋幢幡、妓樂歌頌をもて供養し恭敬し、尊重し讃歎すべし。若し人有つて此の塔を見ることを得て、禮拜供養せば、當に知るべし、是等は皆阿耨多羅三藐三菩提に近づけりといふことを・・・經卷これ全身なり」。
以下経巻がいかに重要かを説いたのちに、次のように締めくくる。「しかあれば、經卷は如來全身なり、經卷を禮拜するは如來を禮拜したてまつるなり。經卷にあふたてまつるは如來にまみえたてまつるなり。經卷は如來舍利なり」。要するに経巻を以て釈迦を代表させているわけである。従来は釈迦の舎利を以て代表させていたものを、経巻に移動せしめたわけである。
道元は仏舎利を軽視しているわけではない。経巻が仏舎利と同じ功徳をもっていると言いたいのである。仏舎利は、そう簡単に手に入るものではない。ましてや天竺を離れた海の果てにある日本では手に入る可能性はゼロに近い。そんな日本でも仏教の教えが広がるためには、経巻の役割が重要である。経巻を以て仏を代表させれば、日本でも仏教が盛んになる。そういう願いを込めて、道元は経巻こそ如来全身だと説いたわけであろう。如来全身とは、如来そのものと言い換えることができる。
道元はまた、釈迦の次のような言葉を引用する。「我れ本より菩薩道を行じて、成る所の壽命、今なほ未だ盡きず、復た上の數に倍せり」。これは、さとりを開いた結果、自分の寿命は無限になったという意味であるが、そのことは、さとりの境地を説いたところの経巻が無限の功徳を持つということであろう。だから、仏舎利などにこだわらず、釈迦の教えを説いた経巻を護持すべきだということになる。
最後に、智積菩薩の言葉というのが引用される。「我れ釋迦如來を見たてまつるに、無量劫に於て、難行苦行し、積功累して、菩薩道を求め、未だ曾て止息したまはず。三千大千世界を觀るに、乃至芥子の如き許りも是れ菩薩身命の處に非ざること有ること無し。然して後乃ち衆生の爲の故に、菩提道を成ることを得たまへり」。これは、釈迦の修行は全世界の救済を目指したもので、世界のいたるところとして、釈迦の願いの及ばぬところはないという意味であろう。それゆえにこそ、「はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり」といえるのである。なお、智積菩薩とは、法華経に出てくる菩薩の名である。
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