「たけくらべ」は、樋口一葉が書いた小説の中で最高傑作といってよい。短編小説ではあるが、他の小説にくらべて長いのと、その分筋書きの展開が入り組んでおり、色々な要素が共存している。メインの要素は、江戸から東京になった下町を舞台にして、少年少女を中心とした庶民の生きざまが生き生きと描かれていることと、主人公格の少女美登里の変貌である。美登里は当初男の子顔負けのお転婆娘として描かれていたのが、ある日突然変化する。その変化は、美登里の仲の良い男友達正太郎がびっくりするほど顕著である。正太郎は美登里より二つ年上の十六歳に設定されているが、その正太郎が、美登里がいきなり変わったことに辟易するほどなのである。
たしかに、この小説の最大の読ませどころは、美登里の変貌の部分なのである。その変貌をどうとらえるかで、小説の読み方ががらりと変わってしまう。従来の主流の意見は、美登里が初潮を迎えたことで、女を自覚するようになった。その自覚が美登里に顕著な変化を与えた。美登里は、それまでの性別を感じさせないような活発な女の子から一人の女に生まれ変わった。その女としての自覚が美登里に顕著な変化をもたらした、とするものだった。
それに対して佐多稲子が異議をとなえ、ちょっとした論争に発展した。佐多にとっては、美登里の変わりようは尋常ではないのである。「美登里のこの変りようは初潮に原因があると解釈されている。それですむなら『たけくらべ』の良さは単なる少年少女の成長の記に終わると云えないであろうか」と佐多は言って、それですむのだったら、「たけくらべ」はただの少女小説に過ぎなくなると言っている。佐多の直観では、この小説はそんない浅はかなものではない。当時、つまり明治になって間もない時代における、一部の少女たちの厳しい境遇を暗示している。美登里を憂鬱にさせたのは、初潮のショックなどではなく、自分の身の上に花魁の姉大巻と同じ境遇が起ることを自覚したことによるのであると佐多は言うのだ。十四歳の美登里の身にも、芸者として生きるように強制するものが迫ってきた。その切迫感が美登里を憂鬱にした。
評者の中には、美登里は廓の中でじっさいに身を売ったのではないかと推測するものもあり、その現実的な可能性などを忖度するものもあった。初めて身を売ることを、関西では水揚げと言い、関東では初店と言うそうだ。その初店の行事が、廓の中で行われ、その行事にともなって美登里は体を売ったのではないか、そう推測するような見方も提出されたりするが、小説の書き方としては、なにも体を売る場面をことこまかく書く必要はない。それとなく匂わせるだけでよいのであって、一葉の筆はどうも、美登里の身に体を売ることに通じるような何事かが起り、それが美登里の気持ちを乱れさせたと匂わせていると受け取れる。
ともあれ、廓から戻ってきた美登里の様子は、佐多の言うとおり尋常ではない。彼女は自分の身の上を恥じるようになり、そのため仲のよかった正太郎をはじめとして人と会うのが怖くなった。人の自分に向けられる目に、侮蔑を感じるようにもなった。ただの初潮くらいで、人の侮蔑の対象になるわけはない。そうなるのは、彼女が人をはばかるような境遇になるからだ。つまり売女の境遇である。とはいえ、明治の初め頃には、売女の境遇は現在ほど屈辱的であったわけではない。じっさい、美登里の姉は廓の中では売れっ子の花魁なのであり、そんな姉を美登里は誇りにしてもいる。だから、自分が姉と同じ境遇になるのは、絶望的なこととはいえない。そこをわかっているから美登里の母親は、「怪しき笑顏をして少し經てば愈なほりませう、いつでも極りの我まゝ樣さん、嘸お友達とも喧嘩しませうな、眞實ほんにやり切れぬ孃さまではある」などと平然と言ってのけるのである。最初はショッキングだろうが、そのうち姉のように慣れてくるだろうと楽観している。美登里の両親は、姉娘を売る際に、美登里も将来売ることを条件に周旋屋の厄介になったといういきさつがある。こんなひどい親がかつてはいたようである。
佐多の意見に強く反論した前田愛は、たけくらべにおける緑の変貌は初潮で説明できると強調した。だが前田の反論は、些末な技術的な指摘がほとんどで、肝心の美登里の気持ちがわかっているとはいえない。女の子にとって初潮は、たしかに照れくさいものではあろうが、しかし人目をはばかるような恥ずかしいものとは言えない。そこのところを前田は軽視しているようである。美登里の変貌を初潮のせいにしたがるのは、この小説を少年・少女の成長の物語として受けとめたいとする、主に男を中心とした読者の偏見のせいではないか、と思いたくなる。もっとも女の読者の中にも、瀬戸内寂聴のように初潮説を支持するものもいるにはいるが。
この小説が少年・少女の成長の物語になっていることもたしかなことで、その成長ぶりが、当時の東京の下町の環境を舞台に描かれる。舞台は吉原の西側に隣接する地域で、小説では大音寺前と呼ばれている。少年・少女たちは、おのれの親の身分に応じて二つのグループに分かれる。経済的に豊かな層は公立小学校に子どもを行かせ、貧しいほう私立小学校に行かせる。その二つのグループが睨み合いをするのは、よくあること。美登里は私立学校、正太郎は公立学校で、この二つは本来対立関係にあるのだが、美登里と正太郎は仲が良い。正太郎は美登里に恋心をいだいているほどだ。十六歳ともなれば、恋をしてもおかしくない年頃だ。ともあれ、対立するグループの男女がむつましくするのは、ロメオとジュリエットを思わせる。
かくして、小説はこの二つのグループの対立を、祭りや年中行事をからめながら、情緒豊かに描くのである。その描き方には一葉の筆の闊達さがうかがえる。一葉は、この小説の舞台に一時住んでいたことがあり、その折に、地域の人々の生きざまのようなものにも接したことであろう。
なお、この小説は、最初の三巻が明治28年1月に発行された「文学界」に掲載され、その後併せて七回にわたって分載され、明治29年1月発行の「文学界」で完結した。その間に、「にごりえ」「十三夜」「わかれみち」が書かれている。そんなわけでこの小説には、一葉自身の作家としての成熟のプロセスが反映されていると考えられる。書き始めは少年少女のたけくらべの物語であったものが、途中から美登里の女としての深刻な変化が主題になるのである。そこに我々読者は、一葉自身の中に生じた変化を読み取ることができるのではないか。
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