正法眼蔵第六十六は「三昧王三昧」の巻。三昧とは、仏教用語で、精神を集中すること、あるいは精神の集中した状態をいう。そういう状態に至ってはじめて悟りを得る準備ができる。三昧は悟りの境地そのものではないが、悟りに飛躍するための不可欠の条件である。巻の名称「三昧王三昧」とは、三昧の中の王である三昧、究極的な三昧ということであろう。その究極的な三昧は、只管打坐によって得られると説く。
次のような冒頭の言葉で始まる。「驀然として盡界を超越して、佛祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂を踏飜して、佛祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。佛祖の極之極を超越するはただこの一法なり。このゆゑに、佛祖これをいとなみて、さらに餘務あらず」。一切の世界を超越して、仏の家でもっとも重要なのは結跏趺坐である。外道らの頭を超越して、仏の奥深き堂の人にならしめるのは結跏趺坐である。仏の極意を超越するのはただこれ一つである。この故に、仏は結跏趺坐を営んで、余事はかまわぬのである。
結跏趺坐とは只管打坐のことをいう。只管打坐の姿勢をもって、それに代えているのである。その結跏趺坐にはいくつかのものがある。それについては、次のように説かれる。「身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし」。
これに関して道元は、師如浄の言葉を引く。「參禪は身心脱落なり、祗管に打坐して始得ならん。燒香、禮拜、念佛、修懺、看經を要せず」。参禅は心身脱落をめざすが、それは只管打坐によって得られる。その他のことは要しない、という。そうは言っても道元は、看経を始めその他の修行を全く無視しているわけでないことは、他の巻で、それらの意義を説いていることからわかる。
次いで、只管打坐にかかわる釈迦の言葉を引く。まず偈頌から。
若結跏趺坐(結跏趺坐するが若きは)
身心證三昧(身心證三昧なり)。
威徳衆恭敬(威徳衆恭敬す)、
如日照世界(日の世界を照すが如し)。
除睡懶覆心(睡懶覆心を除き)、
身輕不疲懈(身輕くして疲懈せず)、
覺悟亦輕便(覺悟もまた輕便なり)、
安坐如龍蟠(安坐は龍の蟠まるが如し)。
見畫跏趺坐(畫ける跏趺坐を見るに)、
魔王亦驚怖(魔王もまた驚怖す)。
何況證道人(何に況んや證道の人の)、
安坐不傾動(安坐して傾動せざるをや)
かるがゆえに、結跏趺坐すべきだと釈迦はいうのである。結跏趺坐は只管打坐と同じことである。
以上を踏まえて道元自身の考えが説かれる。「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ證入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷屬なり」。結跏趺坐こそ三昧の中の王たる三昧、すなわち三昧王三昧だというのである。それゆえ、「世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、弟子にも結跏趺坐を正傳しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七佛正傳の心印、すなはちこれなり」。結跏趺坐こそ修行の要諦であり、さとりを得るための王道だというのである。
コメントする