公有財産評価の思い出 落日贅言

| コメント(0)
自分の手で自分のポストをつぶしてしまった小生は、一年後の異動期にどこかへ異動せねばならなくなった。課長級になって七年近くたっていたから、そろそろ統括課長に昇任していい頃だった。統括課長というのは、課長より半ランク上の階級だ。各局の総務課長とか部の番頭課長(庶務担と呼ばれる)、あるいは局の重要ポストなどにあたる。小生はどこでもよいと思っていた。仕事が面白そうなら、財務局でなくてもよい。そんな気でいたところ、思いがけないポストをあてがわれた。財務局用地部評価室評価担当課長である。現任者が昇任して他局に出ることになったので、その後任とされたのだ。正直、あまり乗り気にはなれなかった。一応統括課長職への昇任ではあるが、仕事の内容が変り映えしない。仕事仲間だった土地調整課長などは、昇任を祝福してくれたが、どうも士気が上がらない気がした。

評価担当課長の職務は、前稿でちょっと触れたとおり、都が当事者となる不動産取引価格の評価である。それに指導担当課長が所管していた地価調査を受け継いだ。だから実際には評価課長といってよいのだが、なぜか評価室評価担当課長のままだった。それに国土法担当副参事がぶら下がっている。その副参事にも異動があって、教育財団時代から仲のよかった男が他局に去り、そのあとに港区から来た男がついた。その男とはいまだに仲良くしている。

評価担当課長の仕事は、ほとんど変化のない、単調なもののように見えた。指導担当課長だったころから、隣に座っている評価担当課長の仕事ぶりを見ていたが、議員との関係とか各局との関係に多少気を使う程度で、高度な判断といった要素に乏しい。その点では、国土法担当副参事のほうがにぎやかだった。そちらは、民間の土地取引に直接介入する。その取引には、ときにいかがわしい連中がかかわっていて、その連中が担当副参事に圧力をかけてくる。だから気の小さい男には荷が重い。港区から来た男は手際よくさばいていたが、その後任者は重圧に耐えられずノイローゼ状態になってしまった。

不動産の評価額の決定には、財産価格審議会というものを絡ませていた。これは条例にもとづく審議会で、15人以内のメンバーで構成するとされていた。この審議会は小生が評価担当課長になった際に、小生の職務範囲に繰り入れられた。それまでは用地課というところで所管していた。所管課長が交代したことを理由に、それまで13人だった構成員を条例の最大限である15人に増やそうということになった。増員される二人は、公認会計士と税理士をあてることにし、小生がそれぞれの職域団体に交渉してメンバーを出してもらった。二人とも女性だった。ちなみにそれ以外のメンバーをいうと、不動産研究所など不動産関係の団体の役員とか、信託銀行の不動産担当(不動産鑑定士)などが入っていた。また、弁護士もいた。

小生が評価担当課長になったころ、最大の案件は大島空港の建設がらみのことであった。着任早々空港建設室長なる役人が訪ねてきて、用地買収がすみやかに進むよう是非協力願いたいと申し込まれた。露骨にはいわないが、買収価格を実勢より高めにしてもらいたいということらしかった。小生は適正に評価するとしか言えなかった。

大島へは、何度か赴いた。財産価格審議会のメンバーを案内したこともあった。その際は、消防庁の大型ヘリコプターを借りた。仕事で少人数で行くときには、小型のヘリコプターを借りた。ある時、出張先の同じ宿に主計部の連中が泊っていたが、連中は警視庁のヘリコプターを借りたそうである。それを使って、国から天下りしてきた主計部長をもてなしていたのである。

伊豆の島々にはけっこう出かける機会があった。八丈島や三宅島にも行った。三宅島は、前回の大規模噴火の影響があちこちに見られた。中学校は固まったマグマに囲まれていた。三宅島では、噴火があるたびに人口が減少し、一時は8千人もあった人口が、3千人にまで減ったそうである。

評価室は50人を超える大所帯である。それが土地評価班、物件評価班、地価調査班にわかれていた。土地評価のやり方は、日本の不動産鑑定の特徴である路線価方式というものを採用していた。これについては、われわれ都の財務局が大きな影響力を発揮してきたのだと、室員たちが誇らしく言っていたものである。路線ごとに標準地の地価を設定し、それに個別の土地の事情を考慮して、増減するというものである。標準地の地価は、近隣の直近の取引事例から類推するという方法をとっていた。これは道路用地の場合など、集合的な案件に非常に効果を発揮した。物件評価については、ある種の職人芸のようなものだったと思う。

個別の評価案件は、一連の書類にまとめられる。業界では不動産鑑定書と呼んでいるが、都では評価書と呼んでいた。その評価書ができあがるまでに、いろいろな横やりが入る。一番多いのは、土地買収に直接かかわる局の担当者からの要望である。買収がスムーズに進むよう、評価に手心を加えてもらいたいというものだ。その取引に、議員が絡んでくると、話がややこしくなる。議員は、当該物件の当事者から直接依頼を受けて、かれらの要望をストレートに言ってくる。口利きと称されるものだ。それを適当にあしらわねばならない。そういったケースは、指導担当課長の時にも結構あったが、評価担当課長のほうが頻度は高かったように思う。

口利きがらみで一番苦労したのは、大島空港の案件だ。これにさる有力な議員が介入してきた。この議員は露骨な要求と高飛車な態度で庁内で名をならしていた。対応を間違えると左遷させられたり、ひどい目にあいかねないので、みな戦々恐々としていた。そんな議員を相手にすることになって、小生はだいぶ不運をかこつことになる。しかしその議員は、買収される住民から直接依頼されているのではなく、空港対策の役人から依頼されているようだった。だから、役人をてなずけてさえいれば、なんとか切り抜けることができるだろうと、タカをくくってもいた。その役人に小生はかなり柔軟に対応したつもりだった。なんとかうまく収められるだろうと思っていた。ところがそうはならなかった。その役人は議員に発破をかけ、その議員から小生は強い圧力を受けることになったのだ。

或る時その議員から電話で呼び出された。小生は上司の用地部長(三人目の部長だった)とともに、その議員のもとに赴いた。議員は自分の言うことをきけと高飛車にいう。用地部長ができないこともあると言うと、激高する。小生は灰皿を投げつけられたくらいだ。議員はその場で財務局長に電話をいれ、そのあと副知事にも電話した。財務局長は急いでかけつけてきた。局長に向かって議員はわれわれを散々罵った。財務局長は手慣れた様子で相手をし、その場はとりあえず収まった。そこを辞する際に局長はこう言ったものである。高い給料をもらっているのだから、これくらいのことは当たり前と思わなければな、と。

用地部長はその後、直近の人事異動で退職するはめになった。退職したのではなく、させられたと言ってよかった。何が原因かよく考えてみると、大島をめぐる議員との軋轢以外には思い当たるフシがない。用地部長は議員とのトラブルの詰め腹を切らされたのであろう。それなら部下の小生も同罪であるが、今回はお咎めなしですんだ。我々の不始末を、二人目の上司だった男(他部の部長だった)は陰であざ笑っていたそうである。

大島の案件は、買収価格を多少かさあげし、島の役人を納得させることで決着した。決着後小生が島を訪れると、教育長に昇格していたその役人が、二日にわたって小生をもてなしてくれた(三原山の火口を覗き込んだり、御神火太鼓を楽しんだり)。おかげで念願の空港を作ることができますといって感謝された。小生は複雑な気持ちになった。

議員の介入は他局の土地取引案件をめぐっても起った。その局の対応に満足しない議員が直接小生のところへ言ってくるのである。役人によっては、それを自分のところで引き受けて、当職に迷惑がかからないよう配慮してくれるものもあった。小生が日頃親しくしていた男は、ある議員が自分の仕事のことで無理な要求を小生にしていることを聞きつけて、あんな悪党のいうことをきくことはないさといって、案件を裁いてくれた。その男はのちに副知事になった。

しかしこの男の場合は例外で、大部分は面倒を当職に押し付けて平然としていた。そういうケースでは、当職が用地買収の担当者のような役割をさせられるのである。当職の役割は、本来はただの不動産鑑定なのであるが、実際には用地買収全般を担わざるを得ないのである。建設局だけは、さすが用地買収のプロだけあって、当職に迷惑を及ぼすようなことはしなかった。建設局のベテランを人事異動で引き抜くことも多々あった。

国との関係はあまりなかったが、建設省とはなにかとやりとりがあった。当職は建設省の土地政策の勉強会のメンバーになっていて、都を代表しての意見を求められることがあった。印象深いこととして覚えているのは、大深度地下の権利制限に関する議論だった。50メートル以上の深度の土地の取得については、これを無償で収容できるように法改正を行いたいというものであった。小生は、都も地下鉄を掘っているので、非常にありがたいと答えたものである。

国有地を買収するにあたっては大蔵省(関東財務局)との交渉になった。原宿警察署の移転改築計画がもちあがって、東郷神社に隣接する国有地を買い取りたい旨申し込むと、都の基準からすると結構高額を要求された。そこでたびたび交渉を重ねて、なんとか折り合えるところに持っていくのである。互いに役人であるから、落としどころは心得ている。






コメントする

アーカイブ