小説「たけくらべ」は、浅草の吉原遊郭街に隣接する空間を舞台にしている。小説を読むには、かならずしも舞台背景を知っている必要はないが、維新後のある時期の日本の庶民生活がテーマになっている「たけくらべ」のような小説の場合、庶民が生活していた空間についてリアルな認識を持っていることは、小説の味わい方を深めこそすれ、余計なことにはならないだろう。ましてこの小説は、吉原という特殊な空間に深く結びついている。その空間は、歴史的な事情を引きずっている。そんなわけで小生は、この小説が舞台とする空間について、強く意識した次第である。
この小説は次のような書き出しで始まる。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や・・・」。
この文章を理解するためには、吉原の地形について一定の知識が必要である。吉原の遊郭街は、江戸幕府が浅草田圃と呼ばれる湿地帯を埋め立てて造成したところだ。ほぼ四角形の土地をお歯黒溝と呼ばれる堀で囲み、北東部に一つだけ門を設けた(敷地の形状は北東から南西へ向かって伸びる四角形である)。廓内への出入りはその北東部にある門を通じて行われる。その門を大門と呼び、門の傍らに植えられている柳を見返り柳と呼んだ。朝方客が帰り際に名残りを惜しんで振りかえったときに目に入るからである。
上の書き出しの文章には、大門にはお歯黒溝を回りこまねば行けぬこと、そのお歯黒部溝に対岸の遊女屋の灯りが映っていること、また、そのあたり一帯を大音寺前と呼ぶこと、三島神社からほど近いことなどが盛り込まれている。この地理感覚は、一葉自身の目線を物語っている。一葉は一時期浅草で小間物屋をいとなんでいたが、その小間物屋の所在地というのが、吉原の敷地の北西にあった(現在は台東区竜泉一丁目、一葉旧居跡の碑がある)。その地点からすれば、上の文章のような視点が得られる。一葉はその視点から、この小説の舞台空間を見ているわけである。
大音寺は実在する浄土宗の寺で、当時の一葉の家からは歩いてすぐ行ける距離にあった。この寺の名前が一体の地名として使われていた。いまは竜泉地区と言われる。三島神社は地区の西はずれにある。金杉通りを北上してきて、この神社の角を東に回れば小説の舞台となる大音前地区に入る。そこは金杉通りに比較すると、軒の低い長屋がたちならぶ貧相な地域である。小説はその地域を主な舞台として展開するのである。
三島神社の祭礼が、小説前半のクライマックスの舞台である。この祭礼は、いまでも行われている。三社祭や鳥越祭りに比較すべくもないが、この地域の伝統ある祭礼として延々と受け継がれてきた。
小説後半の山場は鳳神社の酉の市である。鳳神社は廓の南西の外側にあった。廓の規模は、大門から見て幅が330メートル、奥行きが250メートルほど、そんなに大きなものではない。美登里たち小説の登場人物がどのあたりに住んでいるは、文面からはわからない。ただ、美登里が姉にあうために廓の中に行くときに、鳳神社で商売道具を広げていた長吉が美登里の通りかかるのを見たとある。美登里はおそらく、鳳神社付近に住んでいて、廓の中に入るには、神社を通り過ぎて、お歯黒溝沿いに大回りしたと考えられる。大回りといっても、大した距離ではない。
なお、この地域の人々は、鳳神社の酉の市を、生計を営む大きなチャンスとしていたようである。松があけるとすぐに、その年の酉の市のために、熊手や飾り物の生産にいそしみ始めるのである。長吉までが、酉の市の期間中は、俄か商人になる。
美登里が心を寄せる真如は龍華寺の住職の息子ということになっている。龍華寺という名の寺は実在しない。おそらく龍泉寺のことだろうと思う。龍泉寺の当時の住職には息子がいなかったのかもしれない。そこで、龍泉寺に関していい加減なことを書くよりも、架空の寺のこととしたのではないか。別に龍泉寺にこだわる理由はない。
一葉が浅草の大音寺前に住んでいたのは、明治26年7月から翌27年5月までの、わずか十か月ほどのことである。短い期間ではあるが、一葉はそこに住む人たちと、荒物屋の経営を介在して付き合ううちに、かれら下町の庶民の暮らしぶりに接した。山の手に武士の娘として育った一葉にとって、浅草のしかも吉原に縁の深い人々の暮らしぶりは、新鮮に映ったにちがいない。その自分なりの印象を、この小説のなかで表現したと言えるのではないか。
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