転法輪 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第六十七は「転法輪」の巻。転法輪とは、真理を説くという意味の仏教用語であり、釈迦が悟りを得たのち初めて行った説法を初転法輪といったりする。しかし、この巻の趣旨は転法輪そのもののことではなく、禅者の間で尊重されてきた首楞嚴経についてである。この経は、古来偽経ではないかとの疑問が呈せられてきた。その疑問について、道元はありうることだとしながらも、現実に禅の仏祖たちがそれを受け入れてきたのであるから、むげに否定するのではなく、尊重するべきだと説く。とはいえ、偽経の疑いはまぬがれないのであるから、無条件に信ずるべきでもないと、いささか中途半端な態度を道元はとっているように見える。

道元は、師如浄が首楞嚴経の句について説いたことを引き合いに出して、その句について考察を進める。それは「一人發眞歸源すれば、十方虚空悉皆消殞す」というものであった。一人が真を発して源に帰すれば、十方世界はことごとく消え失せてしまう、という意味だ。意味の内容がいまひとつ不明確だが、道元が言いたいのは、そんなことではなく、この句が偽経の疑いが濃厚だとしても、実際には代々の仏祖たちがこの句を用いて説教してきたことの意味を考えろということである。

如浄はじめ仏祖と呼ばれるべき人たちは、この句を正当なお経の言葉として前提したうえで、色々なことを言ってきた。道元はそれに加えて、自身の受け止め方を述べる。「一人發眞歸源、十方虚空發眞歸源」。人を食った言い方に聞こえるが、要するにこの句をそのままに受け入れようということである(偽などといわず)。

自分はなぜこの句を受け入れるのか。道元はその理由を述べる。「たとひ僞經なりとも、佛祖もし轉擧しきたらば眞箇の佛經・祖經なり、親曾の佛祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、佛祖すでに拈來すれば佛法輪なり、佛正法眼藏なり」。たとえ偽経であったとしても、代々の仏祖たちが受け入れてきたのであるから、それを以て法輪すなわち真理と受け取らねばならないというのである。

代々の仏祖たちが法輪として説いてきたその行為を、道元は転法輪と呼んでいる。それを以てこの巻の題名にしているわけである。

道元は、看経よりも只管打坐に集中せよと繰り返し説いている。お経の中の言葉より、只管打坐することのほうが重要だというのである。転法輪というと、ひとはとかく言葉による説教を思い浮かべるが、本当の転法輪はそんなものではない。それを道元は、この巻の末尾で次のように言っている。「轉法輪といふは、功夫參學して一生不離叢林なり、長連牀上に請益辨道するをいふ」。転法輪とは、生涯叢林を離れず修行することであり、座禅の床に座して道を修めることなのである。要するに只管打坐こそが肝要なのであり、お経の文句にこだわることは、たいして重要ではないと道元は言いたいのであろう。






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