樋口一葉が「にごりえ」を書いたのは「たけくらべ」執筆中のことである。金に困った一葉が出版社に借金を申し出たことで、急遽小説を一つ仕上げねばならなくなって、これを書いたというのが実情である。そんなこともあって、「たけくらべ」と「にごりえ」には、ある種の連続性を認めることができる。「たけくらべ」は少年少女の成長物語として始まり、途中から14歳の少女の身に劇的な変化があらわれる様子を描く。その変化は、彼女が吉原に芸者として売られる運命に関連している。彼女の姉は吉原の売れっ子芸者であり、自分もその姉と同じ道を歩む運命にあることを14歳の少女美登里が思い知る。それが彼女の劇的な変化の背景にある。そういうふうに見ると、「たけくらべ」は芸者になることを定められた女の気持ちに沿った作品ということができる。一方「にごりえ」は、小石川の新開地の銘酒屋の酌婦お力をめぐる物語である。銘酒屋の酌婦というのは、ありていに言えば私娼のことである。客に酌をしながら、求められれば体を売る。そういう私娼が公然とした存在になるのは明治以降のことである。そんな私娼を小説の題材にした作家というのは、一葉以前にはいないのではないか。この小説は、「たけくらべ」が完結していなかった時点で、一葉の名声を一気に高めたのであるが、それには題材の新奇さが大いに働いていた。
要するに、「たけくらべ」が芸者の世界を意識しているのに対して、「にごりえ」の方は私娼を題材に取り上げている。どちらも売春婦ではあるが、芸者が徳川時代からの伝統の上に存在するのに対して、銘酒屋の酌婦のほうは、伝統とは全く無縁な、荒々しい売春の世界をしのぎながら生きている。一葉がそんな世界に生きる女に関心をもったのは、彼女の境遇にも原因がある。一葉は、浅草の吉原の近辺で雑貨屋を営んだ後、それが失敗して小石川の新開地に移住した。その新開地というのは、銘酒屋が何軒か並んでいるようなところである。吉原とは違って、むき出しの欲望が渦巻くような世界である。そんなところに移り住んできた一葉は、吉原との違いに驚きながらも、銘酒屋で体を売る女たちの生態に深い関心を掻き立てられたと思う。その自分自身の個人的な印象を、この小説の中で披露して見せたというのが、大方の事情だろうと思う。
小説の主人公は、銘酒屋菊の井の看板酌婦お力である。そのお力と結城朝之助という客のやりとりが話の主な筋で、それに昔のなじみ客源七との関係が付随的に描かれる。朝之助との関係は、基本的には酌婦と客の関係である。それに対して源七との関係は複雑に見える。というのもこの小説では、お力が源七に刃物で刺し殺され、源七自身は腹を切って死ぬからである。そんな源七に対してお力は納得して死んだわけではなく、無理心中を強いられたという風に伝わってくるように書かれている。この小説の中のお力は自分の境遇に絶望している女として描かれているが、その最後もまたみじめなものだったといえる。つまりお力は踏んだり蹴ったりといってよいような、八方ふさがりの境遇のまま、みじめな死を強いられるのである。
だからこの小説の主要なテーマは、女の貧困ということができよう。一葉はすでに「大つごもり」で女の貧困を描いていたが、その女の貧困をあらためて正面から取り上げたのがこの「にごりえ」だということができる。しかもお力は、貧困にあえぎながら、最後はみじめな死を迎えねばならなかった。「大つごもり」のお峰は、貧困から主人の金を盗むのであるが、とりあえずそれを暴き立てられることはなくすむ。ところが「にごりえ」のお力は、源七に殺されてしまう。源七にお力を殺させたのもやはり貧困である。源七は甲斐性のない男に造形されていて、貧困が原因で妻子に逃げられ、その絶望感が高じてお力に無理心中をしかける。その場面は間接的に言及されているばかりだが、お力には背後から刺された傷跡がいくつもあり、要するに逃げようとして刺殺されたということになっている。
そんなわけで、源七との関係は、源七のほうからの一方的な恋慕と言えそうである。小説の中で、お力が源七に対して深い愛を感じているという記述はないといってもよい、源七のほうがお力に入れあげて、それがうまくいかないことで自暴自棄になる。その挙句に惚れぬいたお力に心中を迫り、いやがる女を殺したという具合になっている。一方、朝之助に対しては、お力は自分の親や自分自身の子どもの頃のことまで詳しく語り、自分は不幸な生まれ合わせだと自嘲しながら、朝之助に同衾を迫るなど、積極的な姿勢を示している。その姿勢からは、彼女が朝之助に自分の運命をかけるような気迫が伝わってくる。しかし朝之助のほうには、お力をまともに迎い入れようとする気はないようだ。朝之助との関係においては、お力のほうの一方的な思い入れという感じが強い。
この小説のテーマは女の貧困だといったが、じっさい、この小説の肝心な部分は、お力が朝之助相手に自分がいかに貧乏神に取り付かれているか、について綿々と語ることからなる。そのお力の執拗ともいえる語り口にたいして、朝之助の方はクールな反応をして見せる。そのクールさがお力には見えない。お力は朝之助に愛されていると思い込んでいる。だから朝之助に向かってこのまま泊って行けとすすめるのである。泊って行けとは無論、一緒に寝たいという意味である。お力が源七の息子に会って高価な菓子を買い与えるのは、その翌日のことである。お力はおそらく朝之助に抱かれたことによる高揚感が手伝って、源七の息子に高価な菓子を買い与える気になったのであろう。源七にとって不幸なことには、その菓子が原因となって妻と激しく衝突し、ついには家族が解体してしまった。そんなふうにまで源七を追い詰めたのは、やはり貧困だというふうになっている。もっとも源七の貧困は身から出た錆という扱いである。源七はお力によって肝を抜かれ、腑抜けになってしまった。だから、かれの貧困は彼自身のせいなのである、というふうに感じさせる。そんな男を亭主に持った女房のお初のほうが、お力よりもっとみじめな境遇にあると言ってよい。彼女は亭主から離別を言われると、当初は自分から頭をさげて許しを請う。こんな男でも、離別されては生きていく目途がたたないというのだ。ともあれ、源七とお初の関係は、同時代の日本の夫婦関係の一端を物語っているともいえよう。
タイトルの「にごりえ」は、お力の境遇を象徴した言葉であろう。同時に当時の日本社会の息苦しい雰囲気を象徴してもいた、と言えそうである。
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