大修行 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第六十八は「大修行」の巻。この巻は有名な公案「百丈野狐」についての、道元なりの解釈を示したもの。この公案は、南宋の臨済宗の僧無門慧開が編んだ公案集「無門関」の第二則として収められている。道元は「無門関」を日本に持ち帰ったと思われる。仏教の基本思想の一つである因果が、この公案のテーマなのだが、それについて道元は非常に批判的な見方をしている。文言の一々についてこまかく批評を加え、その批評が、考案に対して否定的なニュアンスを感じさせるのである。

道元はまず、巻の冒頭でこの公案をまるまる引用し、そのあとで自分なりの解釈を施す。我々読者としては、公案を自分なりに踏み込んで理解し、それについて一定の解釈をしたうえで、道元の批判的解釈を受け止める、という姿勢が求められる。でないと、道元の批判の真意を理解しそこなうであろう。

公案の要旨は次のようなもの。百丈禅師は馬祖の法嗣である。あるとき一人の老人と語り合った。老人は、自分は人間ではないという。彼が言うには、大昔、やはりこの百丈山で学僧と論議したことがあったが、その際に大修行をした人でも因果に落ちる(因果から脱する)ことがあろうかと尋ねられて、因果に落ちることはないと答えたところ、それ以来五百世の間野狐に堕してしまった。自分は野狐の身から脱したい。やはり大修行をした人でも、因果に落ちるのだろうか。すると百丈は、大修行をした人は因果に暗くないのだ、と答えた。それを聞いた老人は大悟した。そのうえで、わたしの亡骸は後ろの山のなかにあるから、それを掘りだして、人間としての葬儀をしてもらいたい、と言った。百丈はその願いにこたえてやった。それを聞いた黄檗は、老人は答えを誤ったために五百生も野狐に堕したというが、もしその生涯において謝ることがなかったらどうなっただろうか、と疑問を呈した。そのうえで、師匠の百丈に平手打ちをくらわした。百丈は怒ることなく、「胡の髭は赤いというが、ここに髭の赤い胡がおるわい。

この公案の要素はいくつかある。まず、因果について、大修行をした人でも因果を脱することはできないのか、というのが一つ。大修行をした人の因果とのかかわりをテーマにしていることから、道元はこれを「大修行」の公案と呼んだわけである。次に五百生にわたり狐に堕したとはどういうことかというのが二つ目の要素。三つ目は、野狐を人間として葬ることの是非である。それに、黄檗が師匠の百丈に平手打ちをくらわしたことをどう考えるかというものもある。

これらの要素のそれぞれについて、道元は批判を加えていく。その批判は、この公案が言っていることが、かなり荒唐無稽に近いという断定である。その断定ぶりは嘲笑に近い。たとえば、野狐が五百生を生きたと言うが、それは狐の時間なのか、それとも人間の時間なのか。人間の時間としたら矛盾がある。なぜなら、釈迦牟尼の時代から数えても、五百生にはならない。ましてや達磨から数えれば、せいぜい十代ほどである。狐の時間としても、五百生などありえない、といった具合である。

道元には臨済系への強い対抗心があって、ときたまその対抗心を露骨に示すことがある。この公案への批判も、そうした対抗心の現れだと受け取れば、道元の批判も納得できそうである。





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