樋口一葉「十三夜」を読む

| コメント(0)
「十三夜」は、一葉の小説の中でもっと完成度が高いといわれる。それは主に文章の完成度に注目した評価だろう。この小説の文章は、少数の登場人物の間の会話のやりとりを中心に展開していくのであるが、そのやり取りが非常にテンポよく、しかも言いたいことを過不足なく表現し得ており、それが地の文章と微妙に調和して、全体として緊迫感に満ちたものになっている。しかも読者はそこに音楽的なリズムを感じる。文章の魅力の大部分が、言葉の音楽的なリズムによることを思えば、この小説の文章のスムーズな音楽的リズムは強みである。

内容的には、一人の女の生き方をテーマとしている。一葉は、自分が生きた時代の女たちの生き方を追求した作家だったといってよい。「たけくらべ」の美登里は、芸者になるべく宿命づけられた少女が、いよいよ自分の宿命を思い知らされて動揺することころを描いているし、「にごりえ」のお力は、新しい男に自分の運命をゆだねようとして、古い男に無理心中を仕掛けられるところを描いている。「大つごもり」のお峰は貧困にあえぎながら、養家の窮状を救おうとして主人から2円の金を盗む話である。以上の小説の主人公に共通しているのは、不本意な自分の境遇に翻弄される姿である。「十三夜」の主人公お節も、自分の境遇に不満がある。とはいっても、彼女は経済的には困窮しておらず、むしろ安定した暮らしをしている。彼女が不満なのは、夫が自分を見下して、一人の人間として見てくれないことである。このまま夫と暮らしていては、自分は人間らしい生き方ができない。そう感じた彼女は、実家に両親を訪ね、自分の不幸な境遇を説明し、是非離婚させてくれと懇願するのである。

このように、結婚生活に不満のある妻が、夫との離婚を望むという話は、現実の世界ではあったのかもしれぬが、小説の世界では珍しかったといえよう。一葉がイプセンの「ノラ」を意識していたかはよくわからぬが、小説のテーマ設定という点では、「ノラ」とよく似ている。ノラの場合には、自立への意思を優先させて結婚生活を解消する。しかしこの小説のお節は、父親に説得されて離婚を思いとどまるのである。

父親が娘を説得するに用いた理屈というのが、実に世俗的で功利的なものである。いまの常識から考えても、あまりにも卑屈にすぎるといわねばならぬ。世間体とか、経済的な利益とかを持ち出して、それを失ってまで離婚するのは損得勘定にあわない。ありていにいえば、父親の言っていることはそれに尽きる。それに対して娘のお節は、父親の説得をあっさりと受け入れる。自分さえ我慢しておれば、今まで通り世間体にかなった生き方ができる。一人息子に片親の悲しさを味わせることもなく、両親や弟をがっかりさせることもない。

そういう卑屈ともいうべき姿勢は、当時の日本女性が置かれていた状況を反映していたものなのか。日本の女性といっても、明治の前半においては、徳川時代の因習的な生きざまがまだ根強く残っていたと思われる。徳川時代には、武家の女性が階級的な面目にとらわれて非常に窮屈な生き方を強いられていた一方で、町人や百姓の女性は比較的自由に生きていたと思われる。そういう点では、一葉には武士の娘という意地があり、その意地がこの小説のなかに表現されていると考えられる。この小説の中のお節の実家はどうやら町人のようだが、その意識は武士のそれを思わせる。そうだとすれば、お節と父親が世間体に強くこだわるのは、武士としての階級意識がそうさせるのであろう。一葉の父親自身は農民の出身ではあるが、一葉が生まれた時には士族を称していたし、娘の一葉は自分を士族の娘として意識していた。その意識が、この小説のお節にもうかがわれるのである。士族としての面目は、そう簡単に捨てられるものではなかったであろう。

小説は上下二段からなり、上段でお節と父親のやりとりを描いたのち、下段ではお節が幼馴染の男と偶然出会う場面を描く。その男はお節が子供ながらに慕っていた男だった。もともとは利発な人間で、商売もうまく切り盛りしていたが、お節が別の男と結婚してからは人が変わり、商売も妻子も投げ捨てて、車夫の身に転落した。いまでは浅草の安宿でその日暮らしをしている。その男がお節を相手に、さんざん世の中を呪うようなことをいう。それに対してお節がいさめる役柄を演じる。先ほどは、父親相手に世の中を呪い、それを父親にいさめられたのだったが、いまでは、世の中を呪う男に対して、自分がいさめる立場になるのである。

一葉がなぜ、そんなふうに舞台設定したか。やはり、一葉が現実に生きていた当時の日本社会においては、人間個人の生き方を世間体が大きく作用していたということであろう。その世間体を一葉なりに解釈したものが、この「十三夜」という小説だった。そう言えるのではないか。

この小説は、題名が暗示するとおり、旧暦を強く意識している。新暦に切り替わったのは明治5年のことで、この小説を書いた時点では旧暦は使われていなかったが、小説の中では、旧暦を強く意識している。十三夜は月が非常に明るくなる時期で、十五夜のためにいろいろ用意する時である。お節の実家でも、月見饅頭を用意していた。そこで訪ねてきた娘にそれを食うように勧める。また、お節が実家を辞して車夫とやりとりするのは、明るい月光の中である。当時はまだ、月は庶民の生活にとって重要な役割を果たしていたのである。






コメントする

アーカイブ