スピノザ「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」

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スピノザの著作のうち、「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」は、死後しばらくは発見されず、かなり時間が経過したのちに刊行された。その経緯や書物の概要については、邦訳者の畠中尚志が岩波文庫版の解説のなかで詳細に記している。それによれば、スピノザはこの書物を二通りの仕方で作成した。一つは弟子たちに向けてオランダ語で口述した。もうひとつは自分自身がそれをラテン語であらわし、それを弟子たちがオランダ語に翻訳した。口述が始められたのは1658年ごろで、今日の形で書物の根幹が完成したのが1660年頃だと推定している。ということは、この書物は、スピノザの主要な作品のなかで最も古いものだといえる。だが、内容的には「エチカ」と共通する。「エチカ」の最初の草稿といってもよいほどである。そんなわけで畠中は、スピノザの思想は、かなり若い頃に形成され、それをスピノザは生涯保持し続けていたということになる、と言っている。

「エチカ」はユークリッド幾何学の方法を応用して書かれているが、この書物は普通の論文の体裁で書かれている。ただし、付録の中では幾何学的な方法が試みられており、スピノザがこの時点ですでに、自分の思想を幾何学の手法で書くことに意欲を持っていたことを感じさせる。スピノザにとって幾何学は、人間の知をもっとも明瞭判然と表現するためのすぐれた手法の手本だったのである。

内容的には「エチカ」の思想を先駆的に述べているとみてよい。二部からなり、一部においては神について、二部においては人間について論じられている。神についてのスピノザの定義は、ユダヤ教やキリスト教の教義とは全く異なったものである。ユダヤ教やキリスト教の神は、人格をもった人間的なイメージであり、しかもこの世界を超越するものだった。この世界は、その人格的な超越神が無から作ったものだと観念された。スピノザはそうは考えない。この世界すなわち自然と神は互いに外在的な関係にあるのではない。自然そのものが神の表れなのである。というか自然の存在そのものが神のあり方なのである。自然の法則が神の摂理である。自然と神とは一体である。そうしたスピンザの神についての考え方は、汎神論と言われたり、あるいは無神論と言われたりした。スピノザがオランダのユダヤ人社会から追放された理由は、彼の自然と一体化した神の概念が、ユダヤ教の説く人格的な超越神と全く異なっており、ユダヤ人にはスピノザが無神論者として受け取られたためである。

ユダヤ教やキリスト教では、神の存在というテーマに異常なウェートをおいている。どんなに偉大なものであっても、存在していなくては、まったく意味がないからである。ところがユダヤ教やキリスト教の神は、まず概念として取り上げられたので、かならずしもその存在が明確であったわけではない。そこで神の存在証明に多大なエネルギーが費やされることになる。ところがそうした存在証明には、一つとして満足できるものがない。神はただの概念なので、存在は後からそれに加わらねばならぬというような論理構造になっているからである。神があって、それに存在という属性が付与される、というのは、そんなに深く考えずとも、破綻するほかないやり方である。これまでもっともましな神の存在証明は、有名な存在論的証明というものといえようが、これは形式論理からしても破綻した議論である

スピノザは、神をまず設定し、それにあとから存在という属性を付与すると言う方法をとらない。スピノザは、まず存在から議論を始めるのである。存在とは何かについて議論し、その存在するもの全体が神だという。存在とは何か、という問はごく簡単に解決される。我々自身を含めて、我々は存在しているものを日々明晰判明に認識しているからである。その存在者の存在、それを神とスピノザは言うのである。そのように考えれば、神の存在証明などという馬鹿げた手続きは必要がなくなる。

こういうわけで、スピノザの神は、ユダヤ教の神やキリスト教の神とは全く違っている。それが彼が迫害される基本的な理由である。ユダヤ教の神やキリスト教の神は、人格的な超越神である。人格的な超越神には、家父長的な意味での人間的なイメージが付きまとう。だから人間にとっては親しみやすい、ときには恐ろしい存在である。ところがスピノザの神には、人間的な暖かさは感じられない。なにしろ自然そのものが神のあらわれだというのであるから、汎神論よりさらに後退して、アニミズムに近い神の扱い方である。ユダヤ教もキリスト教も、自らをアニミズムを超克した高度の宗教と自認しているから、神をアニミズムのようにイメージすることは、文化的な退廃なのである。

ここで一つ疑問が起る。存在こそが神だとスピノザは言うのだが、なぜ存在だけではすまないのか。なぜそれを神と呼ばねばならないのか。神などという余計な概念を捨てて、単に存在を相手に議論すればよいではないか。そういう疑問にスピノザは正面から答えていないが、おそらくすでに人間が神という概念に付与しているさまざまな属性を尊重したいからではないか。神については、たとえば神への愛とか、神の怒りといった擬人的な要素をとりあげて色々議論することができる。しかし自然はなかなか擬人化して議論するわけにはいかない。そこでとりあえず自然を神と同定したうえで、人間が従来神に帰していた属性を自然に即して論じれば、ぬくもりのある議論ができるのではないか。スピノザはそう考えて、あえて神という概念を持続させ、それを自然と一体化したのではないか。

スピノザは、自分が迫害された経験から、神に関する自分の説がスキャンダルを巻き起こすことをよく承知していた。この書物の本体部分の終わりでスピノザは、弟子たちにつぎのように呼びかけている。「ここに述べてある諸々の新奇な説については驚いてくれるな。蓋し或る事柄が多くの人によって受け入れられないからとて、その故に真理であることを止めはしないのは、諸君の十分御承知のところだからである。しかも我々の生存しているこの時代の性格の如何なるものかは諸君も知らなくはないのだから、私は諸君が、かれらのことを他人に伝えるについては、充分用心せられんことを切にお願いする」(畠中尚志訳)。

「エチカ」はユークリッド幾何学の方法を応用して書かれているが、この書物は普通の論文の体裁で書かれている。ただし、付録の中では幾何学的な方法が試みられており、スピノザがこの時点ですでに、自分の思想を幾何学の手法で書くことに意欲を持っていたことを感じさせる。スピノザにとって幾何学は、人間の知をもっとも明瞭判然と表現するためのすぐれた手法の手本だったのである。

内容的には「エチカ」の思想を先駆的に述べているとみてよい。二部からなり、一部においては神について、二部においては人間について論じられている。神についてのスピノザの定義は、ユダヤ教やキリスト教の教義とは全く異なったものである。ユダヤ教やキリスト教の神は、人格をもった人間的なイメージであり、しかもこの世界を超越するものだった。この世界は、その人格的な超越神が無から作ったものだと観念された。スピノザはそうは考えない。この世界すなわち自然と神は互いに外在的な関係にあるのではない。自然そのものが神の表れなのである。というか自然の存在そのものが神のあり方なのである。自然の法則が神の摂理である。自然と神とは一体である。そうしたスピンザの神についての考え方は、汎神論と言われたり、あるいは無神論と言われたりした。スピノザがオランダのユダヤ人社会から追放された理由は、彼の自然と一体化した神の概念が、ユダヤ教の説く人格的な超越神と全く異なっており、ユダヤ人にはスピノザが無神論者として受け取られたためである。

ユダヤ教やキリスト教では、神の存在というテーマに異常なウェートをおいている。どんなに偉大なものであっても、存在していなくては、まったく意味がないからである。ところがユダヤ教やキリスト教の神は、まず概念として取り上げられたので、かならずしもその存在が明確であったわけではない。そこで神の存在証明に多大なエネルギーが費やされることになる。ところがそうした存在証明には、一つとして満足できるものがない。神はただの概念なので、存在は後からそれに加わらねばならぬというような論理構造になっているからである。神があって、それに存在という属性が付与される、というのは、そんなに深く考えずとも、破綻するほかないやり方である。これまでもっともましな神の存在証明は、有名な存在論的証明というものといえようが、これは形式論理からしても破綻した議論である

スピノザは、神をまず設定し、それにあとから存在という属性を付与すると言う方法をとらない。スピノザは、まず存在から議論を始めるのである。存在とは何かについて議論し、その存在するもの全体が神だという。存在とは何か、という問はごく簡単に解決される。我々自身を含めて、我々は存在しているものを日々明晰判明に認識しているからである。その存在者の存在、それを神とスピノザは言うのである。そのように考えれば、神の存在証明などという馬鹿げた手続きは必要がなくなる。

こういうわけで、スピノザの神は、ユダヤ教の神やキリスト教の神とは全く違っている。それが彼が迫害される基本的な理由である。ユダヤ教の神やキリスト教の神は、人格的な超越神である。人格的な超越神には、家父長的な意味での人間的なイメージが付きまとう。だから人間にとっては親しみやすい、ときには恐ろしい存在である。ところがスピノザの神には、人間的な暖かさは感じられない。なにしろ自然そのものが神のあらわれだというのであるから、汎神論よりさらに後退して、アニミズムに近い神の扱い方である。ユダヤ教もキリスト教も、自らをアニミズムを超克した高度の宗教と自認しているから、神をアニミズムのようにイメージすることは、文化的な退廃なのである。

ここで一つ疑問が起る。存在こそが神だとスピノザは言うのだが、なぜ存在だけではすまないのか。なぜそれを神と呼ばねばならないのか。神などという余計な概念を捨てて、単に存在を相手に議論すればよいではないか。そういう疑問にスピノザは正面から答えていないが、おそらくすでに人間が神という概念に付与しているさまざまな属性を尊重したいからではないか。神については、たとえば神への愛とか、神の怒りといった擬人的な要素をとりあげて色々議論することができる。しかし自然はなかなか擬人化して議論するわけにはいかない。そこでとりあえず自然を神と同定したうえで、人間が従来神に帰していた属性を自然に即して論じれば、ぬくもりのある議論ができるのではないか。スピノザはそう考えて、あえて神という概念を持続させ、それを自然と一体化したのではないか。

スピノザは、自分が迫害された経験から、神に関する自分の説がスキャンダルを巻き起こすことをよく承知していた。この書物の本体部分の終わりでスピノザは、弟子たちにつぎのように呼びかけている。「ここに述べてある諸々の新奇な説については驚いてくれるな。蓋し或る事柄が多くの人によって受け入れられないからとて、その故に真理であることを止めはしないのは、諸君の十分御承知のところだからである。しかも我々の生存しているこの時代の性格の如何なるものかは諸君も知らなくはないのだから、私は諸君が、かれらのことを他人に伝えるについては、充分用心せられんことを切にお願いする」(畠中尚志訳)。





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