正法眼蔵第六十九は「自証三昧」の巻。自証とは、自らの力により悟りを開くという意味。それに三昧を加えて、その境地に没入するということ。こういうと、悟りは自分だけの力で達成すべきであって、外的な事柄、たとえば善智識とかお経とかは問題にならないというふうに聞こえるが、そうではない。善智識やお経もまた悟りの実現には不可欠だということをこの巻は説く。その趣旨を冒頭で次のように述べる。「諸佛七佛より、佛佛祖祖の正傳するところ、すなはち自證三昧なり。いはゆる或從知識、或從經卷なり」。
これは、やや矛盾した言い方に聞こえる。諸仏の正伝するところは自証三昧すなわち自分の力でさとりを開くことだと言っていながら、そのさとりは善智識やお経によって得られると説くからである。善智識やお経の力を借りるのでは、完全な自力ではないのではないか、という疑問がわく。しかし道元は、そうではないという。善智識やお経に学びながら、さとりを開くという行為そのものは、自分の力によるというのである。
そこで、知識に従い、経巻に従う、ということが実は何を意味するのかが問題になる。まず、知識に従うということは、単に他者の指導に自己をまかせるというのではない。指導を受けながらも、自己を貫く。それを道元は、「參自從自の消息なり」と言っている。參自從自とは、自己に参じ自己に従うということである。
経巻に従うということは、「自己の皮肉骨髓を參究し、自己の皮肉骨髓を脱落する」ことである。あらゆる経巻に従うことによって、自己を超脱しさとりの境地に近づくのである。
以上を道元は次のように要約する。「たとひ知識にもしたがひ、たとひ經卷にもしたがふ、みなこれ自己にしたがふなり。經卷おのれづから自經卷なり。知識おのれづから自知識なり。しかあれば、遍參知識は遍參自己なり、拈百草は拈自己なり、拈萬木は拈自己なり。自己はかならず恁麼の功夫なりと參學するなり。この參學に、自己を脱落し、自己を契證するなり」。知識に従い、経巻に従うことが、すなわち自己に従うことだとあらためて強調するのである。
ここで道元は、やや違った角度から自証について説く。それを道元は「佛祖の大道に自證自悟の調度あり」と表現する。自證自悟とは、自證よりも自力を強調するように聞こえる。だがそうではない。修行に純粋な自力はない。あらゆる修行は、他力を前提とする。だいたい仏祖の教えそのものが、他者に向かって説くのであるから、説かれる立場の人にとっては他力なのである。その他力をバネにして自力で悟りを開くというのが、仏祖の大道である。
このことを道元は次のように表現する。「爲説はかならずしも自他にかかはれず、他のための説著すなはちみづからのための説著なり」。他のために説くというのは、とりもなおさず自己のために説くというのである。
この巻の後半は、徑山の大慧禪師宗杲という者への批判にあてられている。宗杲は、修行における自力の要素を重んじるあまりに、知識や経典を軽視した。それは自力の意味をはき違えるからである、と道元は批判する。「稽古はこれ自證と會せず、萬代を渉獵するは自悟ときかず、學せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり」と言って、厳しく批判するのである。
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