スピノザにおける愛と悲しみ 「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」から

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スピノザの著作「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」は二部構成になっており、第一部で神に関して、第二部で人間に関して述べる。神は唯一の実体であって、世界はその産物だというのが第一部の説くところである。それを踏まえたうえで、第二部での人間についての主張は、人間を実体としての神の属性であるところの精神と身体の結合したものと捉えることだ。これはデカルトの説を意識したものと思うが、この著作においては、物体としての身体についてはさらりと触れるのみで、大部分は精神についての叙述に費やされている。精神は普遍的な概念としては神としての実体の属性ということになり、それが個別化されたものを様態と呼ぶ。様態には、精神にかかわる様々な事象(感情とか認識など)と個々の人間のありさまなどが含まれる。スピノザがこの書物で主として叙述するのは精神にかかわる様々な事象である。

精神にかかわる様々な事象は、ふつうは認識論の対象として、人間がいかに概念を形成していくか、その過程を論じるというふうに取り上げられる。スピノザの叙述はもっと簡単なもので、人間の精神活動を、臆見、信念、明瞭な認識の三つに区分する。臆見はさらに伝聞と経験に下位区分される。我々の精神活動は、この三つのいずれかを源泉としてなされる。たとえば、感情についていえば、臆見にもとづく感情もあるし、信念にもとづく感情もあるし、明瞭な認識にもとづく感情もある。だいたいの傾向として、臆見に基づく感情は否定的な色彩を帯び、明瞭な認識にもとづく感情は肯定的な色彩を帯びる。

なぜそうなるかといえば、臆見は、伝聞にしろ体験にしろ、対象を受動的に受容することから生じ、したがって誤謬に陥りやすいからである。一方、我々が明瞭な認識と呼ぶものは、事象そのものを感覚し享受することによって生ずるものであり、そうしたものとして誤謬とは無縁であり、確実で前向きなものである。信念は、対象に即するというよりは、我々の精神の確信によってそれと認められるものをいう。そういうものとして、正しい場合もあれば誤謬の場合もあるとスピノザは考える。

スピノザが人間の精神活動について具体的に述べるのは、主として感情についてである。感情は、臆見から生じる場合もあり、信念から生じる場合もあり、明瞭な認識から生じる場合もある。スピノザは、脅威からはじめて、愛や喜びなど様々な感情について細かく分析していく。脅威についていえば、それはだいたいが臆見から生じる。ある事象について、臆見から生じた感想をもとにそれを普遍化するものだから、それと反する事態に直面するとびっくりするのである。明瞭な認識にもとづいて真の推理をする場合には、決してそんなことは起こらない。だから脅威は、誤った精神活動に原因があるといえる。正しい人は、脅威を感じることはないのである。

感情についてのスピノザの議論のうち、もっとも興味深いのは、愛についての議論と悲しみについての議論である。愛とは、スピノザによれば、「我々の知性が立派で善であると判断するところの客体との合一であり、そして我々はこの合一を、愛するものと愛されるものとが一にして同一事物になるようなさうした合一」(畠中尚志訳)のことである。我々は、その対象が完全である場合にもっとも大きな愛を感じることができる。完全なものを我々は神と呼ぶ。だから我々は神を愛すべきであり、また愛さざるをえないのである。

愛の反対は憎しみであるが、憎しみは愛の対象が奪われようとすることへの精神的な反応である。憎しみは一般的には、「我々に何らかの害悪をもたらしたものを我々から退けようとする心の傾向」と定義されるが、「何らかの害悪」とは、我々から愛の対象を引き離そうとするものをいうのである。

次に悲しみについて。悲しみについてスピノザは、「単に意見または意見から生ずる臆見的観念からのみ起こる」と言っている。ここでいう臆見的観念とは具体的には何をさすのか。悲しみは、何らかの善の消失についての精神的な反応であるが、それは多くの場合、否定的・後ろ向きである。後ろ向きというのは、我々を前進させず、いつまでも喪失感にこだわっているからである。ところで我々は、つねに進歩と改善を目指さねばならぬ。しかし我々が悲しんでいる限り、進歩と改善を目指す余裕はない。それゆえ、我々は悲しみから解放されることが必要である。

しかし人間は果たして、悲しみを感じない方がよいのであろうか。悲しみの感情は、スピノザによれば人間を退化させるものであり、したがって好ましくないものとされるが、悲しみの感情を失ったものを人間的といえるのかどうか、甚だ疑問である。東洋では、悲しみの感情は人間性のもっとも根本的な要素とされる。仏教においては慈悲の感情は仏性という名の人間性の根本とされ、儒教においても惻隠の情は悲しみの感情に基礎をおいている。それに対してスピノザは、悲しみの感情は余計なものだと主張する。そこに小生のような東洋人は、深い断絶を感じる。





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