正法眼蔵第七十は「虚空」の巻。ここで虚空という言葉の意味が問題になる。通常の意味では無限定な空間ということになろうが、道元はここでは、諸法皆空というような意味で使っているようである。そこがよくわかっていないと、この巻は何を説いているのか、得心がいかなくなる。ところで諸法皆空は般若教のメーンテーマであり、とりわけ般若心経はこれを繰り返し説いている。この巻のなかでも、般若心経は「心経」という言葉で言及される。そんなこともあり、この巻は般若心経を念頭においていると考えられる。
巻の冒頭で虚空という言葉の意味が説かれる。「佛祖の道現成、おのれづから嫡嫡するゆゑに、皮肉骨髓の渾身せる、掛虚空なり」。仏の教えが実現した状態は、仏祖の渾身が虚空にかかった状態をさす。その虚空とは、「二十空等の群にあらず。おほよそ、空ただ二十空のみならんや、八萬四千空あり、およびそこばくあるべし」。我々が虚空という言葉で考えているような、常識的な空間のことではない、と言っているわけだが、その常識ではない空とは、諸法皆空と言われるような場合の空、すなわちなにも存在しない状態をさす。ということは、仏の教えの神髄は、般若経の教えるように、諸法皆空ということにある。諸法皆空は、色即是空という言葉でよく知られている。
巻はついで、虚空をめぐるいくつかの逸話を紹介する。最初は、石鞏慧藏禪師と西堂智藏禪師とのやりとりである。石鞏は石堂が虚空のことをわかっていないと見抜き、その何たるかを知らしめるために、石堂の鼻をつまんで引っ張った。石堂が抗議すると石鞏は、虚空とは眼に見えるような形では示せない、と答える。というのも、虚空とはなにも存在しないことであり、したがって、これだと指示することはできないからである。この逸話に関して道元は、石鞏に皮肉を呈している。形として示せないということをわからせるためには、何も他人の鼻を引っ張ることはない、自分の鼻を引っ張ればよいのだと。
なお、この逸話に関して道元は、師の如浄の言葉を引用する。「渾身口に似て虚空に掛る」。これは仏祖の全身が風鈴に似て虚空にかかっているという意味だ。口は風鈴の形を象徴しているのである。これは原文では「渾身これ口にして虚空に掛る」となっている。いずれにしても、仏の教えは虚空にかかった風鈴のように、鈴の中には何も存在しないと説いているのである。
ついで、西山の亮座主とその師馬祖のやりとり。馬祖が亮座主に、そなたは何を説いているのかと問うと、亮座主は心経(般若心経のこと)を説いていると答える。何をもって講ずるのかと問うと、心だという。そこで馬祖は、心で説くことは出来まい、できるのは虚空だけだ。なぜなら、存在しないものを存在するように説くことはできないからだ。存在しないものを存在しないものとして説くのが、虚空の説き方なのだ、というのである。
最後に、婆修盤頭尊者の偈が紹介される。「心は虚空界に同じ、等しく虚空の法を示す。虚空を證得する時、是も無く非法も無し」。虚空は存在とは無縁なのだから、存在をあらわす是という言葉も、また非存在をあらわす非法という言葉も意味をもたない、ということである。
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