「われから」は一葉最後の小説である。これを発表したのは明治29年5月10日発行の雑誌「文芸倶楽部」においてであり、一葉は24歳になったばかりだった。だが、病状が急速に悪化し、同年7月22日を最後に日記を書くこともなくなり、11月23日に死んだ。死因は喉頭肺結核である。
「われから」のテーマは、男尊女卑の日本的風習への強烈な異議申し立てである。この小説の主人公お町は、書生千葉との浮気を疑われて、夫に家から追放される。その家は、父親の才覚で立ち上がったもので、本来は娘のお町が相続すべきものだ。ところが入り婿の夫がその家を自分のものにしたあげくに、妻のお町を追放する。これは理不尽ではないか。お町の浮気がどれほど本当らしく見えるかはともかくとして、離縁するというなら、入り婿の方が出ていくのが筋ではないか。また、浮気の問題にしても、男の浮気が甲斐性の表れとして容認されるのに対して、妻の浮気はとことん迫害される。これほどひどい不平等はない。男尊女卑も極まれりと言うべきである。そんな一葉の憤慨がこの作品には込められている。
「たけくらべ」は別として、一葉の小説は女の不遇な立場に寄り添ってきた。「大つごもり」は貧しさゆえに主人の金を盗まざるをえない境遇の女を描いていたし、「にごりえ」は貧しさから私娼の境遇に身を持ち崩した女を描いていたし、「十三夜」は夫から迫害を受けながら、それを耐え忍ばねばならない妻の悲しさを描いていたし、「分かれ道」は身をしのぐために妾になることを選択した女を描いていた。それらの女たちにはしかし、自分の境遇をいやいやながらも受け入れて、忍従するしかないといった諦念が見られた。「われから」のお町は、そうした女たちとは違う。彼女は貧しくはないし、家持の女としての矜持もある。だが、それでもいったん浮気の嫌疑をかけられると、なすすべもなく迫害される。近所の噂話が彼女に圧力を加え、また男尊女卑の掟が彼女に不利に働く。親が生きていたならば、また違った展開になったかもしれないが、亭主のほか頼る者がない身としては、その亭主に愛層をつかされたら、終わりなのである。そこに一葉は理不尽さを見た。
この小説は基本的には、お町の運命のようなものをテーマにしているのだが、そのお町の母親美尾のことにかなりなスペースを割いているので、構成にやや破綻が生じている。なぜわざわざ美尾を待ちださなければならなかったか。美尾はいなくても済むような存在だと思う。たとえお町の人間形成に重大な影響を与えた人間として紹介したいとしても、もっとあっさりした書き方があったであろう。それを、お町のことをそっちのけにして、美尾が小説前半で大きな存在感を示すので、どちらが主人公かわからなくなるほどである。そこに読者は混乱を覚える。なにしろ、お町と書生千葉との浮ついた間柄が描かれていたところに、話は急にかわり、美尾が生んだばかりの娘お町を捨てて家を出た経緯がことこまかく書かれるのである。そのわりに、美尾は決定的な存在感を発揮してはいないのである。小説の構成上、これほど多くのスペースを割り当てるべき存在ではないであろう。
お町と書生千葉との浮気も、ただそれとなく言及されているだけで、お町本人の立場からは何らの描写はない。小間使い達の噂話のなかに、お町と千葉との関係がおもしろおかしく誇張されて語られているばかりである。そんな噂話を信じて、妻につれなく当たる亭主も亭主である。この亭主は、ほかに妾を囲っており、男の子もいる。もっともこの亭主は世渡りの才覚はあるようで、自分の努力でのし上がったということはある。だから、妾を持つくらいは、男の甲斐性として許される。だが、女はそうはいなかい。浮気をした女は、世間から追放されても文句はいえないのである。この小説を一葉が書いた当時は、姦通罪はまだ刑法上の犯罪にはなっていなかったが、日本社会は伝統的に姦通に不寛容だった。
ともあれこの小説は、姦通を直接的なテーマにしているわけではない。第一お町自身に姦通しているという意識はない。書生千葉との浮気を疑った夫が、妻のお町を一方的に追い出すことの理不尽さを直接のテーマとしている。なぜ家持の私が追い出されねばならないのか、そうしたお町の怒りが、この小説のテーマなのである。
「お前樣まへさまどうでも左樣なさるので御座んするか、私を浮世の捨物になさりまするお氣きか、私は一人もの、世には助くる人も無し、此小さき身みすて給ふに仔細あるまじ、美事すてゝ此家を君の物にし給ふお氣きか、取りて見給へ、我をば捨てゝ御覽ぜよ、一念が御座りまする」。お町はこう言って亭主の理不尽さを糾弾するのだが、だれも耳をかすものはいない。彼女は父親が残した自分の家から追い出され、そのあとにはやがて妾が子を連れて入ってくるであろう。それを痛いほど感じながら、お町は屈服させられるであろう。お町を屈服させるのは、当時の日本社会の理不尽な慣習である。
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