スピノザと悪魔

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「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」には、「悪魔について」と題した章がある(第二十五章)。「人間に対する神の愛について」と題する第二十四章と、「真の自由その他」と題する最終章に囲まれたものである。この章でスピノザは、悪魔の存在を否定するのだが、その理由がいま一つ曖昧である。それはスピノザが悪魔についての明確な定義をしていないことから生じる。スピノザは一方では悪魔を悪の人格化として表象しながら、したがって実在するものとして表象しながら、他方では憎しみや嫉妬あるいは怒りといった感情の原因と考えている。感情の原因としてなら、スピノザのいうとおり悪魔をもちださなくても説明できるので、悪魔など存在する意味がないが、悪の人格化としての悪魔は存在する意味があるのではないか。ヒトラーのやったこと、あるいは今現在ネタニヤフのやっていることを考えれば、かれらのようなものを悪魔としか言いようがないのではないか。

この章でスピノザが悪魔について明確に定義しないのは、そもそも悪魔をナンセンスなものと考えているからだろう。ナンセンスなものは、文字通り意味を持たないのであり、意味をもたないものは定義できないからだ。定義とは意味を明確にすることであるから。

スピノザは悪魔について、意味を明確に定義することに代わって、或る意味を仮定する。それは「全然神と相反する或る物、神から何物をも受けない或る物」であり、また「全く何らの善をも欲せず又なさず全然神に反抗する或る思惟するもの」であるとされる。前者の仮定からは、悪魔は無と正確に一致するという。無とは存在しないことであるが、神は存在の別名であってみれば、その反対である悪魔は無であるほかないからだ。後者の仮定からは、悪魔は極めてみじめなものであり、我々は悪魔のために祈ってやりたいくらいだという。この二つの仮定を組み合わせると、悪魔とは無であってしたがってみじめなものであるということになる。われわれはそんなものを持ち出して、様々な事象を説明するための原理とする必要はない。

以上は悪魔の意味を仮定した上での話であった。その仮定の上に立っても、悪魔には存在するということがないのであるから、明確な定義も不可能である。存在しないもの、無について、明確な定義は出来ないというのがスピノザの立場だからである。

以上を踏まえたうえでスピノザは、悪魔を仮定せねばならぬ必然性が全くないのに、何故人々は悪魔を仮定したがるのかと疑問を呈している。その疑問への答えはこの著作のなかでは示されていない。「エチカ」においてスピノザは、悪魔について全く取り上げていないので、悪魔についてこれ以上触れる必要はないと判断したのであろう。ただ「神学政治論」のなかで、ついでのように悪魔に触れている箇所がある。第二章の終わりに近い部分だ。キリストがパリサイ人に向かって「サタンもしサタンを追い出さば自ら別れ争うなり。然らばその国如何で立つべき」(マタイ伝十二章)と言ったのは、パリサイ人たちをパリサイ人たち自身の主張にもとづいて説得しようとしたまでであって、悪魔や悪魔の国が存在することを説こうとしたものではない。そうスピノザは言っているのだが、それはおそらく悪逆非道の比喩としてなら、悪魔という言葉にも一定の意味があると譲歩したものなのかもしれない。我々がヒトラーやネタニヤフを悪魔と呼ぶのも、比喩としてである。だが、比喩にも意味はある。スピノザのように、頭から否定することはないと思う。






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